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命(ぬち)どぅ宝~沖縄慰霊の日に想う~

 今日は沖縄戦が終結して79年目の沖縄慰霊の日である。故郷を持たない私にとって、ご縁ができた沖縄は第二の故郷である!沖縄の墓制や洗骨といった本土にはない葬送儀礼に、これまでの人生で経験したことのない大きなカルチャーショックを受け現在に至っている。なかでも沖縄戦は歴史を考えるうえで余りにも近い過去であり、かつ生々しいので敢えて(戦争遺跡を)避けてきたことは事実である。しかし、今日は特別な日として想うところを記してみたい。

伊計島大泊ビーチ

 沖縄戦は昭和20(1945)年3月26日、慶良間諸島に米軍が上陸して以降、6月23日第32軍司令官、牛島満中将の自決により終結した、約3ヶ月に及ぶ戦闘である。 
・昭和20(1945)年4月1日米軍沖縄本土上陸、空爆、艦砲射撃の猛攻撃が
開始される。いわゆる”鉄の暴風”と言われる。
・県民を巻き込み、琉球石灰岩で形成された自然洞窟、いわゆる”ガマ”に多数が非難する。
・戦闘激化、各ガマは野戦病院と化す。ひめゆり学徒隊が活躍。
・5月25日、軍撤退命令、首里より南部へ移動。
・6月23日、牛島満中将の自決により日本の組織的戦闘が終結した。
・その間、列島各地の若者が沖縄へ向け出撃した、かの「特攻」である。
・日本軍民約188,000人、米軍約12,000人、計約200,000人以上が戦死、県民の4人に1人が犠牲となった。
他、多数の資料や事実があるが詳細を記すことが目的ではない。概要を記したのみである。

古墓(亀甲墓)群の発掘調査

 江戸時代の幕末、那覇港に寄港したペリー提督は、那覇の丘陵に点在する亀甲墓群を見て、琉球人は白い家に住んでいると思ったそうだ。また沖縄戦で米軍は亀甲墓群を見て軍事関連の施設(ミサイル発射台、弾薬庫等)と錯覚した様である。(琉球人は住んでいる家より墓の方が大きいことに驚いている。)また戦後、米軍基地建設に先立って墓地群を(遺骨を改葬させた後)徹底的に破壊、埋め戻している。上記写真は埋没した墓地を調査している様子である。

沖縄最果ての岬(辺戸岬)

 太平洋戦争での日本は、昭和16(1941)年米軍に対してハワイ真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、先手必勝!大打撃を与えた?これは米海軍や米国民の戦意を喪失させる目的であった。しかしその後は持久戦を強いられ、戦闘能力や資源等の物量で圧倒的に優位な米軍が巻き返し、日本軍は連戦連敗を余儀なくされた、ついに本土決戦寸前まで持ち込まれ、沖縄が最後の砦となってしまったのである。ここで戦争について詳細を述べるものではない。歴史に”たら…れば…”は不要である。当然、古都首里の街も壊滅的打撃を受けた。沖縄戦がなければ、首里の街は王都のまま残され今の京都や奈良に匹敵(それ以上の)する重要文化財級の建物群が存在していた。残念でしかない。しかしそれ以上に何のために沖縄県人として生きてきたのか!その時代に生きたことのアンラッキーさを憂うしかない県民の方々は無念でしかなかったろう。取り留めもない文章であるが、今日はどうしても書きたかった。
沖縄の突き抜ける青い空、青い海、海風、彼らこそ生き証人であり、これからも沖縄を愛して行きたい。
アンネヒヤルガヘイ、アンネヒヤルガヘイ、命どう宝!!
沖縄戦でお亡くなりになられた方々に哀悼の誠を捧げます。   
                               合掌


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