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聖徳太子(上宮王家)関係の少年墓か?~竜田御坊山3号墳(奈良県斑鳩町竜田)~

 奈良県立橿原考古学附属博物館へ見学された方は、駐車場奥にある覆屋を是非、覗いてほしい。大きな石材が合わさっているのがわかる。どうやら蓋と底石のようだ。蓋は四角に刳り貫かれている。古墳の石室みたいだ。奈良県生駒郡斑鳩町竜田にあった竜田御坊山古墳という。詳しい説明板もなかったが非常に重要な古墳であるので紹介しよう。

石槨部分を斜めから見る
底石に加工痕がある
正面から奥をみる(奥行216㎝×幅68㎝×52㎝)

 竜田御坊山古墳、正式には竜田御坊山3号墳という。石室と書いたが正式には石槨という。つまり室(へや)という空間というより、石のBox(箱)程度の空間を「槨(かく)」というらしい。横口式石槨が正式名称だ。それがむき出しのまま展示されているのは不自然だが、1965年に宅地造成が原因で破壊されてしまったことによる。古墳の墳丘の大半が破壊されこの石槨が露出した状況でSTOPが入り、緊急調査、保護、移転されたのである。それにしても、これだけの立派な古墳が破壊されるようなことは今では信じがたいことである。3号墳というのも意味があり、その前に1号墳、2号墳があった。これも残念ながら宅地造成で完全に破壊されてしまった。

開口部に対応する横蓋(閉塞石)

 上写真のように堅い石材を丁寧に細部まで加工していることがわかる。蓋石で約4.28t、底石で約2.78tもある。それらを運搬する労働力、当然蓋石の内側部分はある程度現地で削り、重量を軽減したであろうが、数十人の労働力でないことは明白だ。

黒漆が塗られた棺(陶棺)左下に円形の蓋

    発見された際に、石槨の内部には上写真の棺(陶棺)が安置されていた。蓋は移動していない(内部が狭いので蓋は開けるスペースがない)、開口部から入って破壊された形跡もない、つまり未盗掘古墳ということになる。しかも黒漆(上写真で、まだらに黒くなっている部分)が塗られた棺である。大変な古墳が破壊されてしまったものだ。よく見ると蓋の部分と身の部分がずれていることがわかる。要は合わないのだ。また身の底(左側にかろうじて脚部分がみえる。陶棺には通常、脚台つまり円筒形の脚がつく。つまりもう少し底上げされる。)は脚部分がカットされている。他、蓋の下部分と身の上部分が削られているという。(写真ではみえない)実にいびつな棺なのである。

副葬品(三彩有蓋円面硯・ガラス製筆管)

 出土遺物は、日本で出土例のない素晴らしいものであった。上写真の円面硯(すずり)とガラス製の筆管は、当時も極めて貴重な文物であったろう。中国から搬入されたものと思われるものである。その他、琥珀製の枕があるが、産地は岩手県久慈産と判明している。(久慈市の琥珀博物館を見学した際に、当古墳の枕が紹介されていた。琥珀の塊としても巨大なもので、あまり知られていないのが残念だ。)棺内には人骨も良好に残っており、鑑定によると、性別は男性、年齢14~15歳、身長150㎝であるという。

横から見た石槨

 以上の内容を踏まえると、14歳少年の突然死による緊急埋葬という異常な状況が推測される。棺を入れる箱の部分、つまり石槨は急作業でつくられたものではない。巨大で重量のある石材を丁寧な加工をして、内部には漆喰を全面に塗り込んでいる。(石槨内部は真っ白な世界だ。)しかし肝心な棺は蓋と身が異なる棺をむりやり合わせて、無駄な部分を削り込んでいる。棺の底に本来ある高い脚も削られた。それは何故か?石槨に入りきらないのだ。棺は黒漆を陶棺に採用している。これは本来、当時の最高級ブランドである漆塗りの棺を納めるべきところを急な状況が生じ、陶棺に黒漆を塗り代用したものと思われる。何故、陶棺だったのか?確かに木棺よりも良かったのかも知れない。また石槨の寸法を詳細に計算しなかっので、上下左右、蓋と身の合わせ目を削らざるを得なくなった。製作担当者の苦悩、焦りが伝わるようだ。葬儀までは実行したものの、さて搬入となると棺が入らない!困った。棺を削る以外ない。蓋をすれば永久にこの愚策は見破られまい!と蓋を締めた人物は安堵したに違いない。まさか、1300年後に自分達の過ちが暴露されるとは夢にも思わなかったろう。(一方、石槨の方は丁寧で時間をかけた作業をしているように思える。この乖離は何か?)
 博物館の片隅で物言わぬ石槨も、このような面白い人間ドラマがあるのだ!直感ではあるが法隆寺にほど近い、古墳に葬られた高貴な少年は、厩戸皇子(聖徳太子)に大変可愛がられた人物だと思いたい。合掌。


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