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物部守屋大連の墓(もののべもりや おおむらじ)

 初夏を思わせる暑い日の昼下がり、大阪府八尾市太子堂にある物部守屋の墓参りをした。近くには聖徳太子(厩戸皇子)ゆかりの寺、大聖勝軍寺(通称、下之太子、しものたいし)もあり、同じく立ち寄ることにした。

物部守屋墳の正面

物部神社や大鳥神社など一宮の寄進がある

正面左側の玉垣
正面右側の玉垣
 

 その墓は国道25号線(通称奈良街道)の道路沿いに、ひっそりとある。国道沿いなので車の往来が激しく、通行人や自転車も多い。時折、車の列が赤信号で止まると、こちらが墓参りや写真を撮っている姿を、不思議そうに車内から眺めている。行き交う人々にとってこれは誰の墓か?など興味なさそうに過ぎ去る。正面に鳥居があるが扉は鍵がかかっており、墓前まで参拝できない。しかしそれで充分だ。何故なら物部守屋墓という碑のみであるからだ。ここに守屋の遺骨が埋葬されている訳ではない。その理由を次の写真から説明しよう。

聖徳太子古戦場の標柱
守屋(首洗い)池

 この場所は古戦場跡である。用明2年(587)に蘇我馬子物部守屋が激戦をおこなった場所なのだ。(丁未の乱 ていびのらん)大阪府八尾市は古代物部氏の本拠地であった。日本史の教科書では、仏教を崇拝する蘇我氏(聖徳太子含む)と、土着の神を崇拝し、新興宗教である仏教に反対する物部氏の対立つまり「宗教戦争」として語られている。しかし真相は皇位継承に絡む政権争いであった。物部氏も近隣に渋川廃寺という寺院を建立しているので、反仏教派ではない。宗教には関係なく、いかに天皇を自らの手で擁立させ政権の主導権を握るかの争いだったのである。いくさでは戦闘に長けている物部氏の優勢が目立ち、蘇我軍は何度も劣勢を強いられた。いくさに参加していた聖徳太子も激戦の渦中で生命の危機に晒されたと伝わる。

神妙椋樹(しんみょうむくのき)
椋樹(むくのき)内に聖徳太子像がみえる

 上記写真の椋樹(むくのき)内に聖徳太子のお姿がみえる。いくさの途中で太子の命が危うくなったとき、この椋樹が割れて中に入り難を逃れ、その後の逆転勝利を得たという。聖徳太子の四天王への祈りからの逆転劇を経て最後は蘇我軍の勝利となる。敗軍の将である物部守屋は斬首され、その首を洗ったといわれる池が上写真の「守屋(首洗い)池」なのだ。

聖徳太子像と四天王像

大聖勝軍寺(太子堂)正面

 物部氏の勢力範囲(所有地)は広大なものであった。八尾市を中心に現在の四天王寺の範囲も物部領であった。聖徳太子はこのいくさに勝ち、当戦場に寺院を建て敵味方に関わらず戦没者の霊を弔ったとしている。その後の四天王寺建立(32)もいくさがさが契機となった。つまり現在の聖徳太子ゆかりの地のほとんどが物部領であったとみてよい。歴史は勝者によって塗り替えられ、敗者の正当性はもみ消される。悲しいが”勝てば官軍負ければ賊軍”なのだ。敗者物部守屋の墓参りをした後、勝者聖徳太子の寺を見学した。守屋の心境やいかばかりか!歴史に、…たら…れば、は禁物だが、もし物部軍が勝利していたらどうであったろうか。蘇我氏と同じ天皇家を巻き込んで(外戚)政治をしていたかも知れない。しかし歴史上に聖徳太子(厩戸皇子)がいなくなる。(これも脇役の定めなのか…。)
 物部守屋は日本史上最高の脇役であったと明言しておきたい。今日の墓参りは少しでも守屋の弔いになっただろうか。(因みに、四天王寺境内には守屋の怨霊封じともいわれる守屋祠が、これまたひっそりと存在する。毎月22日のみ参拝できるそうだ。)

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