ブラタモリ高松編で語りきれなかったこと③そもそもなぜ高松に巨大な海城がつくられたのか?
こんにちは、ブラタモリ高松編で案内人を務めさせていただいた香川大学の西成と申します。
先日3月12日に放送されたブラタモリ小豆島編は皆さん、ご覧になったでしょうか?小豆島の地形が豊かな食を生み出した…高松編に続き、こちらもとても面白かったですね。
さて、今回で海城町・高松に関する投稿も3回目となりすが、日本初!?の海城イスト(※海城研究家みたいな意味です…)として、地道に執筆活動を続けたいと思います。
前回まで、「高松城って何がすごい?」というテーマのもと、①「天守がすごい!」②「お堀がすごい!」という話を紹介させていただきました。
そして、前回の記事で③「海ー城ー町の配置がすごい!」というお話の予告をさせていただきましたが、このテーマは日本全国の海城についてお話しないとその詳しい内容に入っていけないため、今回の記事ではもう少し高松城にこだわっていきたいと思います。
ということで、今回のお題は「そもそもなぜ高松に巨大な海城がつくられたのか?」というテーマのもと、海城町・高松のアイデンティティを探るディープな旅に皆さんをお連れしたいと思います。
そもそもなぜ高松に巨大な海城がつくられたのか?
高松城は「日本で最初で最大の海城」と評されるくらい、海城として日本を代表するお城でした。
まさに、日本における海城の代名詞ともいえるのがこの「高松城」なのです!(地元の方は、え~ほんと?となるかもしれませんが、ほんとなんです…!)
こちらの記事でも紹介したように、高松城の天守の高さは広島城と肩を並べる高さで、その高さは中四国一となります。
これだけの高さの天守をつくるためには、当時の時代情勢からいっても、天下人である秀吉の許しがなければ建てられなかったのではないかと思います。
では、なぜここ高松にそれだけの規模の海城天守閣をつくることができたのでしょうか?
築城当時の頃の石高をみても、広島藩40万石、高松藩12万石と、その差は歴然としていました。
にもかかわらず、高松城の天守は中四国のなかでも最も規模の大きな広島城と肩を並べる高さが許されたのです。
石高や人口という観点からも、そこまで大きな藩ではなかったここ高松藩に、なぜ「日本で最初で最大の海城」と評されるようなお城がつくられたのでしょうか?
皆さんもぜひ一度、当時を想像しながら考えてみてください。
今回はこの謎に迫っていきたいと思います。
(♪チャーラチャッチャッチャ♪ブラタモリならBGMが流れてますね(^-^;)
こちらの絵図は、江戸時代末期に出版された『讃岐国名勝図会』の見開きページで、高松を紹介する最初のページに、この海から眺める高松城の景色が描かれています。
この『讃岐国名勝図会』は、現在でいうと香川県の観光ガイドブックでして、当時は『〇〇名勝図会』といったシリーズもので、全国各地の観光ガイドブックが出版されていました。
その『讃岐国名勝図会』の高松編トップページに、海上から見る高松城が掲載されているわけですので、江戸時代であっても、海から見る高松城は全国的にも見どころある名所であり、高松を代表する景色であったことを示してますね。
では、当時から高松を代表する名所であった高松城、あらためて今日の本題「そもそもなぜ高松に巨大な海城がつくられたのか?」考えていきましょう。
今回は趣向を変えて、まず私がいろいろ調査したうえでの結論からご紹介させてください。
私なりの結論は以下の通りです。
これが私なりの解答です…!
高松城をつくると同時に、軍港や商業港という機能を併せ持つ巨大な港湾施設がこの地に必要となったから、と現段階では考えております。
では、段階を踏んでご説明していきたいと思います。
1588年生駒親正による高松城の築城開始
まず、高松城がどのようにして築城されていったのか、その経緯からご説明していきましょう。
時代は戦国時代末期、織田信長と豊臣秀吉による天下統一が事実上なされていった時代(専門的には織豊時代ともよばれています)、四国平定と九州平定を成し遂げた秀吉が、これからの瀬戸内海、もしくは讃岐の国をどのように治めていくか、こうした時代に高松城の築城は始まることとなります。
1587年、新しい讃岐の国づくりを進めるうえで、秀吉から送り込まれたのが生駒親正という武将でした。
親正は居城の地として、中世の頃から城が築かれていた引田城に入り、その後、宇多津の聖通寺山城を居城とするも定まらず、選地を繰り返し、現在の高松の地が選ばれました。
1588年、高松城の築城が親正によって開始されますが、高松城の縄張りが着手されるこの地は、もともと野原の庄と呼ばれる土地で、近年の発掘成果によると中世の頃から栄えていた港町がこの地にあったようです。
親正がこの地に居城を決めるうえで、まず野原という地名を吉兆性の高い地名に変更するべく、屋島の麓に存在していた喜岡城周辺の地名である「高松」という地名を称することとなりました。
なお、「高松」という地名が使えなくなった喜岡城周辺の地名は「古高松」としてその記憶を引きついでいます。
一般的に、城をつくるプロセスは「選地→縄張→普請→作事」と呼ばれる工程で進んでいきます。
親正は選地により、香東川河口の八輪島と呼ばれる扇状地の先端に城地を定め、縄張と呼ばれる天守を防御するための曲輪と掘割をつくっていきました。
なお、城の縄張、特に海に直接城郭が面する大規模な海城がつくられていくわけですが、その助言役として、城づくりの名手として名高い黒田官兵衛や細川忠興、藤堂高虎の名が史料でも確認されています。
諸説ある状況となっておりますが、縄張のつくり方や生駒家とのつながりなどから考えて、仮に助言役がいたとするならば、私自身は今治城を築城し居城とした藤堂高虎によるものと考えています。
こちらの絵図は、築城開始から半世紀ほど経過した頃の高松城下が描かれた絵図でして、親正による築城の姿を克明に表した絵図となっています。
天守のある本丸を中心に「の」の字を描くように曲輪が築かれ、内堀、中堀、外堀と、三重の堀で防御を固めています。
ここで堀の形に注目していただきたいのですが、内堀、中堀は直接外海から出入りできないような構造になっているように見受けられます。(どこから海水を取り入れていたか、現在でも不明のようです。)
これはおそらく防衛上の利点を優先した結果、外海との直接的なつながりを極力少なくしたと考えています。
城のお堀が巨大な港の機能を持っていた
一方、外堀に目を向けると、城を中心として西と東にそれぞれ「西濱舟入」「東濱舟入」と描かれた船着き場、つまり港が整備されました。こちらはむしろ外海と直接つながるような構造をとっており、外堀西側には水軍のための港(軍港)、東側は商人のための港(商港)をつくりました。
軍港として整備された「西濱舟入」を見てみると、西側の浜辺にいくつかの掘り込みが描かれているのがわかります。
これは、いわゆる造船所としての機能を持ち合わせていることを示しており、この港では単に船の停泊をしていただけではなく、新たな軍船を造ったり、船の修理等を行う、大きな船のドックとしての役割を担っていたと考えられます。
また、当時の規模を推定すると「西濱舟入」は直線距離にして約500mほどの岸壁があったと推定され、その距離は現在のサンポート高松赤灯台のある防波堤とほぼ同じ規模となります。そう考えると、かなり巨大な港湾施設が城の掘割とともに整備されたことになります。
当時の状況から考えると、八輪島と呼ばれる河口部に、突如として巨大な城と港がつくられ、その背後に城下町が形成されていきました。
戦国時代も終わりを告げ、まさに新しい時代が始まろうとしている、そんな様相がこの高松城下町で存分に感じることができたのではないかと想像できますね。
さて、ではここであらためて皆さんにお伺いしたいです。
ここまで高松城がどのようにして築城されていったか、その概要を述べてきましたが、ではそもそもなぜ「高松」と呼ばれるこの地に、巨大な天守や城をつくることになったのでしょうか?
そして、城はどうして内陸部ではなく、海際につくられたのでしょうか?
そのヒントは、瀬戸内海における高松の地理的条件と築城当時の社会情勢が深く関わっている事柄となります。
まずは高松城を瀬戸内海全体が見渡せるくらい上空から見てみましょう。
なぜ高松の地に巨大な天守が必要だったのか?
このように瀬戸内海を上空から見てみると、下関や明石といった特別に狭い海峡はあるものの、瀬戸内海全体を見たときに、本州と四国が特に迫っているエリアとして、東の備讃瀬戸エリアと西の芸予諸島エリアが挙げられます。
そして、日本三大水城として名高い、高松城、今治城、中津城ですが、このうち、高松城は備讃瀬戸エリア、今治城は芸予諸島エリアの要の位置に立地していることがわかります。
本州と四国が迫るこちらそれぞれのエリアには、後に瀬戸大橋やしまなみ海道が架けられることからも、瀬戸内海全体のなかでも特別なエリアであるといえます。
このように、瀬戸内海全体を見渡したとき、最も本州と四国が迫る高松と今治に、それぞれ三大水城としても名高い海城が築かれたわけです。
こうして考えていくと、瀬戸内海全体を監視するのに優れた立地となる高松がもつ地形的要因が、高松に巨大な海城をつくりうる大きな動機になりえたのではと、私は考えています。
では、もう1点、築城当時の社会情勢から、高松に海城が築かれる理由を探っていきたいと思います。
秀吉による天下統一と国づくり
時は1582年、本能寺の変直後にさかのぼります。
上の図は、織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、信長の意志を引継ぎ、天下統一に向けて中国四国、九州といった西国攻めを行う直前の勢力図となります。
こちらを見ると、秀吉と同盟関係にあった三好氏が香川、徳島の一部を領地としており、まさに西国を攻める最前線に香川(東讃)が位置付けられることがわかります。
その後、秀吉は1585年に四国を平定し、1587年には九州を平定することとなります。東国に一部の領地を残すものの、秀吉はこの段階でほぼ天下を手中に収め、豊臣政権が成立することとなりました。
同年、1587年に秀吉の家臣である生駒親正が讃岐国に送り込まれ、翌年1588年に高松城築城開始となりますが、まさにこの時代は秀吉が天下を治めたばかりで、これからの日本の国づくりを進める重要な一歩を踏み出した時期でした。
ほんの数年前には、日本国中、様々な武将がそれぞれの領地をもって争っていた状態ですから、いくら秀吉が天下を治めたとはいえ、まだまだ安心できない状況は続きます。
こうした時代背景から考えていくと、当時、最も重要な交通路であった瀬戸内海という海路を手中に収めることは、信長しかり、秀吉しかり、時の為政者にとっては死活問題にもつながるテーマでした。
そこで、瀬戸内海のなかでも、最も海路が狭まる高松、今治といった地区に、それぞれ巨大な海城をつくることで、瀬戸内海全体を監視できる装置をつくったのだといえます。
刀狩令の海版「海賊停止令」
そして、さらに秀吉は政策として「海賊停止令」(1588年)を発布します。
これは、いわゆる有名な「刀狩令」(武士以外の僧侶や農民に対して武器の使用を禁止した)の海版でして、海賊と呼ばれる沿岸の豪族から武器を奪い、豊臣配下の大名にのみ水軍の所有を許可した取締令となります。
こうした時代的背景を丹念に読んでいくと、秀吉が高松城に込めた意図が読めてくるような気がします。
秀吉は、「海賊停止令」を発布すると同時に、これからの新たな時代を迎えるため、これまでにない治安維持部隊(水軍)を瀬戸内海につくる必要があり、高松や今治という新たな地に、秀吉配下の大名を送り込んだのだと考えられます。
事実、秀吉は天下統一後、隣国の朝鮮を攻めることとなりますが、いわゆるこの朝鮮出兵に、生駒軍は1592年から1597年まで、三度にわたって高松から水軍が出兵しています。
このことからも、秀吉にとって瀬戸内海の水軍基地となる海城は重要な軍事的意味合いがあったといえますね。
ここで少しまとめてみると、秀吉は瀬戸内海の交通を監視するために巨大な天守が必要となり、また、瀬戸内海の治安維持のために大規模な水軍が収容できる巨大な港も必要となった、ということができるのではないでしょうか。
そこで、秀吉と親正は本州まで見渡せるこの高松の地に、巨大な港の機能を持ち合わせる城を築城した、といえると思います。
こちらは江戸時代後期に描かれた高松城周辺の航路図(渡海絵図)となります。図中央が高松城となりますが、高松城天守は周囲に比べてもひときわ高く描かれている様子が見てとれます。
そういう意味では、瀬戸内海を航行する船から天守が視認できるということが重要であり、ゆえに石高や人口といった藩の規模と直接的には関係なく、高松城天守の高さは周辺からの眺望をもって決められたと考えています。
以上、今回のお題「そもそもなぜ高松に巨大な海城をつくったのか?」、少し長いご説明となってしまっておりますが、いよいよ終わりが見えてきました。
皆さん、お分かりいただけたでしょうか?
結論だけでも知りたいという方に向けて、あらためて短く整理しましょう。
お題「そもそもなぜ高松に巨大な海城をつくったのか?」
高松に巨大な海城がつくられた理由、私なりの解釈も含めてご紹介させていただきました。
なぜこの高松という地に日本を代表するような海城がつくられたか、そこには動かしがたい地理的要因と当時の揺れ動く政治的要因が隠れていたのですね。
さて、今回の記事、あらためていかがでしたでしょうか?
今回も気づけばかなりの分量となってしまいました…。
ここまで関心を持って読んでいただければ、とてもうれしい限りです…!
「ブラタモリ高松編で語りきれなかったこと」コーナーも、徐々に核心に触れる内容となってきました。
次回はいよいよ、高松を飛び出して、全国の海城との比較から、高松城の特徴などを紹介していきたいと思います。
ここでは予告も兼ねて、日本の海城として有名な三原城の絵図をちらっとご紹介します。
いかがでしょうか、見るからに要塞感たっぷりの海城となっています。
三原城は広島藩の支藩となったため、町としての規模はとても小さかったのですが、海城としての城郭はとても立派でした。
築城者は水軍を操る武将として名高い小早川隆景です。
三原城は別名「浮城」とも呼ばれており、海に浮かぶ城として日本のなかでも唯一無二の特徴をもつ海城です。
さて、日本にはどんな海城が存在しているのか、次回の記事をお待ちください…!
あとがき
今回の投稿内容、じつはブラタモリ高松編でじっくりお伝えしたかった内容となります…!
45分という番組の時間的制約があるのでね、編集の都合でカットされるのは本当に仕方のないことだと思います。(むしろ番組としての完成度を優先していただいたおかげで、本編はとても感動的でした…(´;ω;`)ウゥゥ)
なぜ高松に巨大な海城がつくられたのか、そこは旅行者だけでなく、高松に住んでいる方も「なぜ?」と思われると思います。
その一連の解答を今回noteで紹介させていただきましたが、じつは、この「城と同時に港をつくった」という近世高松の出発点が、その後の港町としての高松の歴史をつくり、明治後期以降、「四国の玄関口」としての運命を決めたといっても過言ではありません。
つまり、高松城の歴史は単なる史実の記述にとどまらず、現代の高松を生きる我々の基層をつくり、その歴史を紐解くことは、これからのまちのあり方や、このまちでの生き方を考える多くのヒントを与えてくれる、きわめて実践的な歴史となり得ます。
地域の形成過程を見直すことは、地域のこれからを考える多くの知見を発見することができ、まちをつくる、地域をつくることとほぼ同義になると考えています。
高松のことをあらためて見直そうとされている市民の方々はもちろんのこと、小学校、中学校、高校での地域教育にもぜひこのnote記事をご活用いただければ幸いです。<(_ _)>
今後は、たまに別の切り口の記事も挟みつつ…、様々な方に関心を持って読んでいただけるnoteづくりもやってみたいと思っています。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。<(_ _)>
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