【日露関係史11】日ソ中立条約の締結
こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第11回目です。
前回の記事はこちらから!
ロシア革命以来、日本はソ連を仮想敵国と見なし、1932年の満州国成立以降、急速に関係を悪化させていきました。ところが、1930年末になると、むしろソ連との提携しようとする動きが高まり、日本とソ連は手を結び、中立条約を結ぶことになります。今回は、1941年の日ソ中立条約締結に至る経緯とその思惑について見ていきたいと思います。
1.独ソ不可侵条約の衝撃
前回説明した通り、1932年の満州国建国以降、満ソ・満蒙間の国境紛争が頻発し、日本とソ連との間では緊張が高まりました。日本は同じく反ソ・反共を掲げるドイツへと接近し、1936年、日独防共協定を結びます。これがさらなるソ連の反発を招き、翌37年に日中戦争が勃発すると、ソ連は中ソ不可侵条約を締結して、中国を積極的に支援するようになりました。そして、38年には満ソ国境地帯の張鼓峰で、39年には満蒙国境付近のノモンハンにおいて大規模な軍事衝突が起こり、日ソの緊張は最高潮に達しました。
ところが、ここにきて全く予想外の出来事が起こります。ノモンハンでソ連軍の大攻勢が行われていた1939年8月23日、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結したのです。これは英仏とソ連の連携を阻止したいドイツと、緊張が高まる日独との二正面戦争を避けたかったソ連との思惑が一致したことで成立したものでした。しかし、独ソの接近は日独提携強化による日中戦争終結を目論んでいた日本にとっては、外交方針の破綻を意味しており、まさにドイツによる裏切り行為に外なりませんでした。
ドイツの政策転換を受け、日本政府内でもそれまでの対ソ政策が見直され、陸軍省・外務省を中心にソ連との提携・不可侵条約締結が模索されるようになりました。さらに、ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、大島浩駐独大使に対し、イギリスに対抗するため、日独ソの三ヵ国の提携を提案し、ドイツが日ソを仲介する用意があると持ち掛けてきました。こうして、日本政府の外交方針は、ソ連を中立化するための日ソ国交調整へと進んでいくことになります。
2.日独伊ソ同盟構想
1940年7月22日に誕生した第二次近衛文麿内閣において、松岡洋右が外務大臣に就任します。松岡といえば、1933年の国際連盟脱退、1940年の日独伊三国同盟の結成などにより日本の孤立化・対米戦争を招き、日本を破滅へと導いた人物として知られているかと思います。しかし、松岡は外交官時代に出会った後藤新平から多大な影響を受けて対露関係を重視した人物でもあり、そんな彼が大戦期の日ソ外交を担うことになります。
近衛内閣の外交上の課題は、日中戦争によってこじれた日米関係の改善にありましたが、松岡はドイツと同盟し、さらにそれを後ろ盾にソ連とも手を結び、米国に対抗するという構想を打ち出しました。松岡の構想は近衛首相を魅了し、ドイツとの同盟は対英米戦争を誘発すると強く反対していた海軍も松岡に説き伏せられます。こうして1940年9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟条約が締結され、日本、ドイツ、イタリアによる反英米軍事同盟が結成されます。
短期間のうちに三国同盟を成立された松岡は、今度はソ連との交渉に着手します。松岡はドイツに日ソの仲介を依頼しており、リッベントロップ外相からヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員※に、三国同盟にソ連が同調すること、無条件での日ソ不可侵条約締結が提案されました。しかし、モロトフの回答は、北樺太の資源開発利権の解消を条件に中立条約を結ぶというものであり、日本側は北樺太の領土買収を逆提案しますが、一蹴されてしまい、交渉は難航しました。
※1947年までソ連では、「大臣」は「人民委員」、「省」は「人民委員部」と呼称された。
3.日ソ中立条約の締結
なんとしてもソ連と提携したい松岡は、自らソ連に乗り込み、直接交渉を行うことを決意します。今でこそ外相の外遊は珍しくありませんが、戦前に現役外相が国外へと渡った事例は、小村寿太郎がポーツマス講和会議に出席した際など数えるほどしかなく、松岡の外遊は条約締結のための秘策だったのです。
1941年3月、松岡は東京を出発します。まずは対英戦争、対ソ政策について話し合うため、ドイツ、そしてイタリアへと向かいました。ところが、ベルリンに到着した松岡は、リッベントロップから驚愕の事実を教えられることになります。なんと、ドイツとソ連との交渉はすでに決裂しており、ヒトラーは対ソ戦争の準備を進めていたのです。この時点で、松岡の構想はすでに破綻することになりました。
それでも松岡は、北方の安全確保と対米交渉の地盤を固めるため、4月にモスクワ入りし、建川美次駐ソ大使とともに、モロトフ外相と交渉に入りました。松岡は不可侵条約締結を撤回し、無条件での中立条約締結に応じるよう求めますが、モロトフは条約締結の条件として北樺太利権を解消することを譲りませんでした。松岡とモロトフとの溝は埋まらず、交渉は決裂かと思われましたが、4月12日にスターリンとの会談が実現すると、利権解消については後日話し合うという条件で、中立条約締結が合意されました。
こうして4月13日、クレムリンにおいて日ソ中立条約が調印されました。同条約は全四条からなり、第一条では両国の平和友好と領土の保存及び不可侵を尊重すること、第二条では一方が第三国による攻撃を受けた際に、他方の国は紛争の全期間中、中立を守ること、第三条では条約の効力は5年間とし、その1年前に破棄の通告がない場合は、さらに5年間自動延長されること、第四条では条約のなるべく速やかな批准と批准書の交換は東京で行うことが、記されました。
4.崩れゆく松岡の目論見
松岡は悲願であったソ連との中立条約締結を成し遂げましたが、彼の目論見はただちに崩れ始めました。
先ほど述べたように、松岡の構想では、日ソの提携は米国との交渉を有利にするためのものであり、次はワシントンへと行き、ルーズヴェルト大統領との交渉を行うことを考えていました。ところが、近衛首相は松岡のあずかり知らぬところで独自の対米工作を進めており、松岡が帰国した際には、すでに欧州戦争と中国問題に対する日米の方針を定めた日米諒解案がまとめられていました。松岡は、日本にとって都合の良すぎる諒解案を、三国同盟を破壊するための米国の「陰謀」と見なし、諒解案に基づく交渉を拒否するようになります。
帰国後の松岡は、昭和天皇から「ヒトラーに買収されたのではないか」と心配されるほどのドイツびいきとなり、ドイツとの「信義」を重んじ、三国同盟に固執するようになります。こうした松岡の態度は日米双方に対して軋轢を生み、ハル国務長官は「日本は真剣に太平洋での平和を求めているのか」と疑い、日米交渉を妥結に導きたい内閣の中でも松岡を外すべきだという声が高まりました。
さらに、ベルリンで松岡が告げられた通り、独ソ関係は急速に悪化していました。この情報は、帰国後も大島駐独大使から電報で松岡へと伝えられていましたが、松岡は本当に戦争が始まる可能性は低いと触れて回っていました。しかし、6月22日、ドイツはバルバロッサ作戦を実行し、ソ連に奇襲攻撃を仕掛け、独ソ戦が始まります。これによって、松岡の四ヵ国同盟構想は完全に破綻することになりました。
5.対ソ戦争の準備
独ソ開戦の報せを受け取った松岡は、あからさまにドイツへと加担し、中立条約を破棄してソ連と「即時開戦」するように訴え、さらにスメタニン駐日大使に対しても、三国同盟と中立条約が矛盾すれば、後者は効力を持たなくなると強調しました。戦後、松岡が打ち明けたところによると、ソ連攻撃を訴えた理由は、武力南進を目指す陸海軍をけん制し、対英米戦争を回避することにあったといいます。独ソ戦の勃発は必然的にソ連と英米の接近を招き、そこに対英米戦争が勃発すれば、日本は英米ソの三国を同時に相手とすることになるため、まずはドイツと提携してソ連を撃破することで、全方位での戦争を回避しようとしたのです。
しかし、自ら締結した中立条約を2か月足らずで破棄せよという主張は支離滅裂にしか映らず、松岡の北進論は政府内で受け入れられませんでした。また、かねてから対ソ戦を意識していた陸海軍にとっても、すでに武力南進が準備された状態からの転換は相応の時間がかかることから、北進は非現実的でした。しかし、その後も北進か南進かという結論は出ず、対英米戦争を覚悟してでも南進を進めるとともに、対ソ戦を見据えた武力準備を進めるという両論併記な国策が採択されました。
これに則り、参謀本部は、演習の名を借りて満州に展開する関東軍の増強を図りました。これを「関東軍特殊軍事演習」、略して関特演といい、35万人の関東軍の兵力は85万人にまで膨れ上がり、極東ソ連軍の戦力が半減したらソ連に侵攻するとされました。しかし、独ソ戦はドイツがいうほど短期間で終結せず、極東ソ連軍の西送も小規模にとどまったため、8月9日、軍は年内の対ソ開戦放棄と関特演の中止を決定しました。こうして、この時点で中立条約が破られることはなく、対ソ開戦は回避されました。
6.まとめ
松岡は7月16日の内閣総辞職をもって外相の任を解かれ、18日に成立した第三次近衛内閣では続投されず、すでに肺病を病んでいたこともあり、その後は政治の表舞台から姿を消しました。しかし、松岡の予想した通り、武力南進は日米関係のさらなる悪化をもたらし、12月8日、日本はついに対米開戦に踏み切ります。北方静謐をもたらした日ソ中立条約は、陸海軍に南方進出を決意させる歴史的転換点となったのです。
日ソ中立条約に関しては、多くの日本人には太平洋戦争末期にソ連が一方的に破ったことが記憶されているかと思います。しかし、実際には破らなかったとはいえ、日本も条約を順守する気はなかったということは指摘されるべきかと思います。連載第9回でも述べましたが、自信が被害者であるからこそ、自らの加害性を忘れてはいけません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
日ソ中立条約については、こちら
松岡洋右については、こちら
明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら
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