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【日露関係史10】ノモンハン戦争

こんにちは、ニコライです。今回は【日露関係史】第10回目です。

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社会主義国家であるソヴィエト連邦の樹立により、日本とロシアとの関係は急激に疎遠化していき、以前見られたような友好関係ではなく、対立が目立つようになります。特に、1931年の満州事変によって日本の傀儡政権である満州国が成立すると、日ソは新たな紛争の時代へと突入していきます。今回は1930年代を通して頻発した日ソ間の国境紛争と、その中でも最大の衝突となったノモンハン戦争について見ていきたいと思います。


1.ソ連の極東政策

1931年9月18日の柳条湖事件をきっかけに関東軍は軍事行動を開始、翌年2月には中国東北部全土を制圧し、同年3月には日本の傀儡国家である満州国が成立します。こうした日本の行動は、国際連盟加盟各国から不戦条約違反・連盟規約の否定であると非難されますが、ソ連は満州事変に対して中立を保ちました。当時のソ連は第一次五ヵ年計画の真っ最中であり、国力の充実に努めるために、日本との衝突を避けたかったのです。

満州国の位置図
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4479575

しかし、農民からの収奪と国民への弾圧・粛清によって、ソ連は急進的な重工業化を達成し、ヨーロッパ最大の工業国へと変貌します。1933年に第二次五ヵ年計画が開始される頃には、極東の軍備力強化にも着手し、兵員だけでなく、戦車、装甲車両、航空機などの近代兵器大幅に増強されました。極東における日ソの軍事バランスは大きく崩れ始め、34年の時点で、極東ソ連軍23万に対して関東軍は5万航空兵力に関してはソ連の配備数は日本の3倍以上になっていました。

スターリンとヴォロシーロフ国防人民委員
30年代を通してソ連軍の兵員・兵器は大幅に増強されたが、20万人の将校のうち3万人が、「ドイツ・日本のスパイ」、「人民の敵」といった罪状で粛清された。
Public Domain, https://commons.wikimedia.or、g/w/index.php?curid=116990

ソ連の極東政策において重視された国が、モンゴルです。モンゴルはロシア革命の影響を受けて1921年に中華民国から独立し、24年には史上2番目の社会主義国であるモンゴル人民共和国の樹立を宣言しました。しかし、ソ連以外の国から承認を得られなかったことから、独立モンゴルはソ連の強い影響下に置かれることとなります。1936年にはソ蒙相互援助条約が締結され、ソ連軍がモンゴルに駐留することが可能となり、また、首相からラマ僧まで2万人以上の人々が「日本のスパイ」として粛清されていきました。こうしてモンゴルは、ソ連によって対満州・対関東軍の前線基地に仕立て上げられていったのです。

日ソの対立
「ソヴィエト・外モンゴルと日本の傀儡・満州国との血痕の国境線」と書かれている。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=83555003

2.満ソ・満蒙国境紛争

満州国の成立により本格的な大陸進出を果たした日本は、これまでにない新しいタイプの問題を抱えるようになりました。それはソ連との国境問題です。ソ連と中国との国境は、アムール川という自然地形に沿って設定されていましたが、この長大な大河は川幅が広いところでは3~4キロにも達し、その間にある1600もの島の領有をめぐる問題が起きていました。満州国はこの問題をそのまま引き継いだため、1932年の建国当初から満ソ国境を巡る小競り合いが頻発しました。

満州国の地図
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=444236

こうした紛争は、モンゴルと満州との国境でも起こるようになります。日本側は満ソの国境と同じく、満州とモンゴルの国境河川などの自然地形によって規定されると考えていました。ところが、モンゴル側は満蒙国境は、独立モンゴルを構成しているハルハ族と、同じくモンゴル系ながら満州側に住むバルガ族との部族の境界であると考えており、これに従えば、国境は河川等とは関係なく、広大な平原のただ中に引かれることになります。こうした国境観の違いが、紛争の引き金となっていったのです。

オボー
モンゴルの平原や峠にある石を積み上げて作られた塚のこと。モンゴル人はこうしたいくつかの塚を結んだ線を部族の境としていた。
CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5417208

当初、紛争はモンゴルと満州国の国境警備隊同士の小競り合い程度のものでした。しかし、1935年1月に起きたハルハ廟事件においては、越境してきたモンゴル側の攻撃で、日本側は十数名の負傷者2名の戦死者を出し、これまで国境紛争に直接介入しなかった関東軍が出動する事態にまで発展しました。これ以降、満蒙国境紛争は満蒙の国境警備隊だけでなく、関東軍とソ連軍が交戦する本格的な紛争へと発展していきます。

3.紛争のエスカレーション

ハルハ廟事件を受け、日本側はモンゴル側に国境紛争を解決するための会議を開くように打診します。長いやり取りの末、1935年6月、満州とソ連の国境地帯に位置する満州里において、モンゴル側代表団日満側代表団との交渉会議が行われました。しかし、モンゴル側はソ連の指示通りにしか発言できず、また会議はたびたび長期間にわたって中断されたこともあり、捕虜や遺骨の交換などが行われたものの、肝心の国境画定には至りませんでした

満州里会議の出席者たち
左側が日満代表、右側がモンゴル代表。会議の出席した満蒙両国のモンゴル人たちは、スパイ行為を疑われて後に粛清されることになる。
https://mn.wikipedia.org/w/index.php?curid=42665

ハルハ廟事件以来、満ソ・満蒙の国境紛争は年間150件近く発生するようになっていました。その中でも特に大きな紛争となったのが、1938年の張鼓峰事件です。張鼓峰は北部朝鮮の豆満江とソ連領のハサン湖の間に位置する小高い丘陵で、国境が不明確であるとして日ソ両軍が配兵していませんでした。しかし、1938年6月のNKVD※極東長官の亡命事件をきっかけにソ連軍が張鼓峰に出現、これを「不法越境」と見なした現地の朝鮮軍が独断で反撃に出たため、師団単位の大部隊が衝突する紛争へと発展しました。

張鼓峰を守備する日本軍
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事態はモスクワで行われた外交交渉によって終息しました。張鼓峰は日本側が死守し、ソ連側にも大きな被害を与えましたが、参謀本部は日本軍の実力を十分ソ連に見せつけたとして撤兵を命じ、係争地一帯への配兵を禁じました。結局、この戦いで国境問題が解決することはなく、日ソ双方に不満と再戦意欲が残ることになりました。

※NKVD:内務人民委員部。諜報と反体制派の取締を管轄。KGBの前身。

4.ノモンハンでの激突

1939年4月、「満ソ国境紛争処理要綱」が関東軍司令官の名で満州全土の部隊に下達されました。これは強硬派の若き作戦参謀辻政信少佐によって起案されたもので、ソ蒙軍の越境行為をてた膺懲 ようちょう、すなわち断固たる武力行使によって敵の戦意を挫き、紛争拡大を防ぐという積極策が示されていました。ところがこの要綱では、ソ蒙軍の殲滅のために一時的にソ連領内に侵入することや、国境線が不明瞭な場合は現地の防衛司令官が「自主的に国境線を認定」することまで定められており、現地部隊が国境外で戦闘を行うことを容認していました。

辻政信(1902‐?)
関東軍作戦参謀。マレー作戦を成功させた功績などから「作戦の神様」、「陸軍きっての秀才」と称えられる一方、度重なる職務越権行為や独断専行、部下への責任押し付けなどから否定的評価も強く、作家の半藤一利は「絶対悪」と評している。
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そして、事件はハルハ川東岸に位置するノモンハンで起きました。ノモンハンでは、日本側はハルハ川を、モンゴル側はそこから東へ約20キロの場所を国境と認識しており、この相違からモンゴル側による「国境侵犯」が日常化していました。この地の防衛を担当していた第二十三師団は、先の「要綱」を受け、5月11日、問題解決のために正規軍を派遣、これに対してソ連側も正規軍を投入したため、本格的な戦闘へと突入していきます。戦闘はエスカレーションしていき、5月末に戦闘が休止するまでに双方が400人近い死傷者を出すに至りました。これを「第一次ノモンハン事件」といいます。

ノモンハンの位置図
図中南北に流れているのが日本側が国境線と認識していたハルハ川、赤線がモンゴル側の主張する国境線。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=29689412

関東軍のエスカレーションはとまらず、翌6月27日には、ハルハ川を遥かに超え、モンゴル領内奥地にあるタムスク航空基地への爆撃が決行されました。この越境攻撃辻参謀らの独断で行われたもので、統帥権干犯であるとして昭和天皇の逆鱗にも触れましたが、東京の参謀本部問題を有耶無耶にしてしまい、事態を止めることができませんでした。7月に入ると、関東軍は急ごしらえで橋を架けてハルハ川を渡り、モンゴル領内に侵攻を開始します。「第二次ノモンハン事件」の始まりです。

ノモンハンの平原を行進する関東軍
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5.ソ連軍の大攻勢

ところが、渡河した関東軍の前に現れたのは、300両ソ連軍の戦車部隊でした。旧式の銃火炎瓶しか持たない関東軍は劣勢に立たされます。第一次ノモンハン事件の後、新たな司令官としてゲオルギー・ジューコフ将軍が派遣されており、ジューコフの指揮の下、在蒙ソ連軍は立て直され、狙撃師団、装甲車旅団、戦車旅団などが大幅に増強されていたのです。渡河作戦はただちに中止となり、昼夜問わぬ突撃作戦が実行されますが、ソ連側は圧倒的物量で対抗し、戦線は膠着状態に陥ります。

ゲオルギー・ジューコフ(1896‐1974)
実戦での功績はなかったものの、決断力のある有能な軍人として評価が高まり、モンゴルに駐在する第五十七特別軍団司令官に任命される。後に元帥へと昇進し、独ソ戦においてソ連軍を勝利へと導く。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=44337435

この膠着状態の間、ジューコフはさらなる軍備増強を図り、兵員日本側が2万5000人対して倍の5万7000人戦車・装甲車については日本側はほとんど有していなかったのに対して800両以上が集められ、戦力差は大きく開きました。8月20日からソ連軍の大攻勢が始まり、電光石火で補給路が寸断された第二十三師団を飢えと渇き弾薬不足に苦しめられながら過酷な塹壕戦を強いられ、損耗率7割を超える壊滅的損害を受けました。

ソ連軍の戦車部隊
ソ連軍がノモンハンで展開した包囲・殲滅作戦は、その統率の見事さから「ジューコフの傑作」と称される。
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関東軍司令部はさらなる反転攻勢を仕掛けようとしますが、参謀本部から戦闘停止を強く求められ、さらに9月15日にはモスクワでの外交交渉もまとまり、ようやく停戦へと漕ぎつけました。その後、日ソ満蒙の4ヵ国による国境画定作業が行われることになり、1941年5月に締結された日ソ中立条約では、各国の領土保全と国境不可侵が確約され、同年10月には国境に関する総合議定書が調印され、満ソ・満蒙の国境が画定しました。こうして、10年以上続いた日ソの国境紛争は、日満側がソ蒙側の主張をほぼ認める形で終結することになりました。

6.まとめ

ノモンハン戦争での被害については、諸説あるものの、日本側の死傷者2万人前後に対し、ソ連側は2万5000人以上と、被害はソ連の方が大きかったという見方が強いです。これをもって、「実は日本軍の方が善戦していた」「実質的には日本軍の勝利である」といった論調を度々見かけることがあります。しかし、ソ連が圧倒的な人的・物的被害を出した独ソ戦において「真の勝利者はドイツ」などという人がいないように、被害の大小は戦争の勝敗とイコールとは言い難いでしょう。僕は戦争の勝敗とは、その戦争を行うことで目標を達成することができたか否か、にあると思います。この観点からいえば、紛争の主要因だった国境線について、ソ・蒙側の主張をほぼそのまま認めた日本側の敗北だったと言えます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

ノモンハン戦争と日ソの国境紛争については、こちら

明治維新から太平洋戦争までの日露関係史については、こちら

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