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ロシア革命の一歩「血の日曜日事件」 皇帝の無能のせいでこうなった

ロシア革命って面白いですよね(押しつけ)                          ということでロシア革命の発端について書こうと思います。


 きっかけ

1904年、日露戦争勃発。                           ロシアが散々見下してきた「マカーキー」(ロシア語で猿)にボコボコにやられました。

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日露戦争の詳細情報

そして労働者は不満の限界に達し、1905年1月22日にデモ行進を行いました。

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 デモ行進の詳細

設立:1904年4月                                         規模:6万人                                                    目的地:冬宮(今のエルミタージュ美術館)                         要求:日露戦争の停止、政治的な自由、団結権、平等、憲法制定会議を開く、8時間労働法の承認                               リーダー:ガポン神父                             場所:サンクトペテルブルク(当時の首都)                            ※あらかじめ、警察へデモを通達し許可を取っていました。すなわち合法   ※また要求はとても軽いものであり、ロシアで実現できるレベル

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 当日について

当日、労働者約6万人が讃美歌・国歌斉唱を歌いながら、ニコライ二世の 写真を掲げ行進しました。

このように労働者の心境は「皇帝に非は無い、その側近たちが悪さをして苦しめている。皇帝直々にお話ししてくれれば改善してくれるだろう」という感じに皇帝の反抗心は微塵たりともありませんでした。

そして、行進はクライマックスに達し、冬宮へ到達しました。

労働者のその時の心境としては、「皇帝様に伝えれば何とかなるだ」「満面の笑みを浮かべた皇帝が今に来ておらたちを助けてくれるだ」

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そんな淡い希望を抱きましたが、冬宮で待っていたのは、「満面の笑みを浮かべた皇帝」ではなく「銃を持った軍隊」でした。

労働者「なんだなんだ、何で軍隊がここに居るだ」

労働者「打てるものなら打ってみろ!」

しかし、現実は厳しいもの。次の瞬間、冬宮は真っ赤に染まりました

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軍隊「撃てーーーーーー」

労働者「ぐわあーーーー」

軍隊が銃を発砲しました。                                  

 歴史的意義

それまで、労働者・農民などの下の人たちは「皇帝が絶対」「皇帝は天使」という価値観があり、革命思想が浸透しにくかったのです。            

しかしこの事件により、皇帝の化けの皮が剝がされ、皇帝に対する信頼・親しみ・威信などが地に落ち、以後ロシア革命へと繋がっていくのです。

労働者が冬宮に来た時、皇帝が温かく迎え入れ「そちたちの気持ち受け止めたぞ」みたいに答えれば、ロシア革命なんてどう転んでもあり得ませんでした。

また、この後に皇帝は「労働者の犯行を許す」と火に油を注ぐ様な発言をし、モスクワ大公であるセルゲイ大公爆破事件へと繋がっていくのです。

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 まとめ

とにかくロシア革命は産業革命の労働者が苦しいときに運悪く「無能」であるニコライ二世が当たってしまいました。

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この革命によりソ連へと繋がっていくのです。                               Урааааааааааааа!

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