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【短編】『時代の先へ』

時代の先へ


 どうすれば今の時代、先駆的な作品を作ることができるだろうか。真新しいことをしようとしてもすでに誰かが考えついたものばかりで、何も先駆的ではないではないか。そもそも、先駆的になろうとすること自体が今の時代、先駆的ではないのかもしれない。と皮肉を込めて言い訳を呟いても仕方がないので、ここで一度真剣になって考えてみようと思う。

 そもそも、今までの時代で先駆的と言われてきた作品たちはどのようにして作られてきたのだろうか。例えば、シュールレアリズムやビートジェネレーション、ヌーヴェルヴァーグ、ヌーヴォロマンといった前衛的な芸術運動が活発化した時代があったが、それら運動がどのようにして起こったのか。もちろん既存の社会体制への不満が積み重なって形成されていったのは間違いないが、そもそも芸術で世界を変えるという無謀な行動を取れるほど今の時代と比べて昔は本能に突き動かされていたようにも感じる。しかしそれらの潮流がなぜ今の時代には当てはまらないのだろうか。そもそも現代の人々は芸術に対してさほど興味を示してはいないのではないだろうか。一昔前までは、戦争が世界中で勃発し、プロパガンダ映画の制作が主流化していたり、そもそも映画鑑賞という媒体が大衆文化として受け入れられていることもあった。さらには文学においては三島由紀夫のように政治やイデオロギーを含めた思想について学生と語り合う場を大々的に設けたりなど、芸術はその国の政治体制と密接な繋がりを持ってきた。しかし今となっては、芸術は消費の対象となるばかりで、人々の暮らしを変えるきっかけとしての力を失ってしまった。あるいは、その力を人々は信じなくなってしまったといった方が正しいだろうか。そんな中で、先駆的なあるいは前衛的な作品を作ると言ったって見る人が先駆的かどうか判断できない時点で意義はないのではないか。

 私は、依然意義はあると感じる。確かに芸術というのは感受する側がいて初めて成立するものだが、仮にその感受する人がいない世界に生まれたとしても、その無いに等しい感受性を一から作りさえすれば良いことだと考える。現にデヴィッドボウイやビートルズ、ピンク・フロイドたちはそうしてきたじゃないか。そして現代において、案外芸術観念を持ち合わせている人は少なくないのだ。その上で、では実際に先駆的な作品を作るにはどうすれば良いのか。ただ闇雲に個人が新しいと思うことを作品内に取り入れて外部に発信すれば良いのか。あるいは、あらゆる過去の先駆的作品を分析した上で今の時代に沿った先駆的と思われる作品を作れば良いのか。これを言ってしまっては元も子もないが、実際には先駆的かどうか判断するのは作者ではなく、その作品を体験する側の人間が 何を思うかで先駆的か否かが決まるのだ。しかし、それでいてもやはり何か策があるはずと思いたいところだが、果たしてそれは可能なのだろうか。10年後にもう一度同じ質問をされて、私はそれに答えられるだろうか。今できることは自分に賭けることのみだ。


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