【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」③)
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コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」③)
フィルは父に愛されていた。母親を幼くして失った代わりに、多くのことを父から教わった。父からの愛はしばしばフィルを混乱させることもあった。しかしその絆は鎖のように強く結ばれ、切れることはなかった。父は息子への愛の示し方を知っていた。それは一般的な家庭で見られる眠りにつく息子へする額へのキスや、公園で好きな女の子の話をしながらするキャッチボールとは違った。酒瓶を片手に人生とは何かを語り、それだけでは伝わらないと思った時は、拳を振るった。
ウォーカー一家の住む家は、赤提灯が道の真上を舞い、繁体字の看板が至る所に並ぶ街にあった。道行く者は皆、顔をフライパンで叩かれたように平坦で真っ赤に腫れていた。訳のわからぬ言葉が飛び交う中、ウォーカー宅からは張りのある英語が外へと漏れ出ていた。
「なぜだ? なぜ違う酒を買ってきた?」
「ごめんなさい。お父さん」
「いいか? おれはバートンのウォッカを買ってこいと言ったはずだ。なぜスミノフを買ってきたんだ?」
「ごめんなさい。バートンがどれかわからなくて、いっぱい並んでるのを買ったんです」
「まったく。役に立たん奴だ。いいか? 世の中はなあ、役に立たねえんじゃ生きてる価値がねえんだ。だから、おれがおまえに価値を与えてやってるんだ。わかるか?」
「はい。お父さん」
「なのになぜ間違えるんだ? おまえは価値がない人間なのか?」
「いいえ、お父さん」
「仕方ねえ野郎だ。もう間違えないようにその頭をこの瓶で打ってやろうか?」
「ごめんなさい――」
フィルは力の限り謝った。もう打たれるのは懲り懲りだった。全身にあざができていることを父は知らない。それを隠すことも自分の役目だった。一度そのあざを見られたときがあったが、父が酔って腕を振るってできたものと知ると、さらに機嫌を悪くした。父は、本来は善人であり、そうであり続けたいのだ。決して悪に愛がないというわけではない。酷い仕打ちを受けることも愛のひとつかもしれないが、それが父の理想とする息子への愛情表現ではないことは息子のフィルもよくわかっていた。
父は自分の息子を子供扱いすることなく、一人の大人として対等に見た。店で食事をするときはバーカウンターで隣に座り、車に乗るときもわざわざ助手席に座らせた。父との時間は一種の社会体験に近かった。父は自分が大人になるために必要なことを何から何まで教えてくれた。歯の磨き方や、服の畳み方などは見様見真似で覚えたが、タバコをタダで吸う方法や、いかに人の目を盗んで路地裏で小便をするかといった家の外での礼儀作法は父が直々に教えてくれた。
父がこの世界で何の役に立っているのかはわからなかった。何も持たずに家を出たかと思えば、何日も帰ってこないこともあった。その時は冷蔵庫に残っている食べかけの肉野菜炒めや、戸棚に隠してあるマッケンチーズを茹でて食べた。食べ物が底を尽きる頃には必ず父は帰ってきた。
「よう。おとなしくしてたか?」
「うん」
父の右肩には、大きな段ボール箱がまるでそれそのものが自立しているかのように綺麗に乗っていた。荷物自体が軽いのか、父が力持ちなのかは判断がつかなかった。その中に入っているものが気になった。きっとそれが、父が世界で役に立っていることを証明するものだろうと思った。しかし父は中身を見せてはくれなかった。しばらく自分の部屋に閉じこもると、カチカチと金属音を鳴らし始めた。その音は夜まで続いた。一定のリズムで響くその金属音を聞いていると段々と眠くなってくるのだ。
朝目が覚めると、家の中を静寂が包み込んでいることに気が付く。父の姿はなかった。仕事に行ってしまったらしい。代わりに父が残したメモ書きがテーブルとボウルの間に挟まっていた。
フィル。買い物を頼む。夕方には家に戻るからそれまでに
これらを買っておくんだ。卵、マッケンチーズ、ソーセージ、つまみ、
イブプロフェン、バートンのウォッカ。間違いのないように。
それじゃあ。
ボウルの隣には、ありったけの小銭が小包に入れて置かれている。これで買い物をしろと言うのだろう。フィルはボウルに入った油の乗った冷えたスープを一口啜った。中にはまだ麺が残っていた。素手で掴み取ってそのまま口に入れた。しばらくして喉に激痛が走った。ようやく窓から光が差し込むと、スープの表面を照らした。真っ赤に染まっていた。フィルはまだ大人にはなれそうになかった。
小銭を持って二ブロック先にある売店へと向かった。レジカウンターには、いつも椅子に腰を下ろして、新聞紙を読みながら外国語を呟くおじいさんの姿があった。ここでは、ウォッカとつまみを買う。父はおじいさんとは顔馴染みのため、特に子供が酒を買うことを注意したりなかった。
ふと買い物に来たついでに、自分のタバコを買ってみたいと思った。たとえ自分が小銭を出して買ったとしてもおじいさんは父が吸うと思って何も言わないはずだ。カウンターの上にビーフジャーキーとラッフルズ、それとバートンのウォッカを置いた。小銭を手で数えながら、カウンターの奥に目をやった。その時は緊張のせいか父がいつも買うタバコの銘柄が思い出せなかった。おじいさんは素早く新聞紙を閉じてカウンターの前に立った。メガネを付け替えると、陳列された小さな箱の方に視線をやる子供を怪しげに見つめた。すると顔をゆっくりと子供に近づけていく。フィルの全身に緊張が走った。おじいさんは一度目を擦ると一言呟いた。
「ウォーカーさんとこの子じゃないか。お父さんはどうした?」
「仕事です」
「そうか、買い物を頼まれたのか?」
「はい」
おじいさんは何も言わずにカウンターの奥から臙脂に縁取られたラークのクラシックマイルドを取り出した。
「君がほしいのはこれかい?」
そう言ってにこりと笑った。フィルはそれが冗談とは理解せず、反射的に頷いてしまった。フィルの頭には、この臙脂の箱が父の吸っていたタバコであるかないかという疑念が巡っていた。おじいさんが渡してきたのだからきっとそうだろう。と自分を安心させた。いつの間にか、本当に父に頼まれてタバコを買おうとしているかのような錯覚に陥っていた。まるで初めから自分はタバコを買おうとしていなかったと言わんばかりに、自分の悪戯心は勝手に忠誠心へと捻じ曲げられていた。それを捻じ曲げたのはおじいさんのようであって、そうでないような気もした。どこか不思議な感覚だった。
売店の外に出て、ようやく我に帰った。フィルは何事もなくタバコを買うことができた。もしおじいさんが父のことを知らなかったら追い返されていただろう。今一度父の存在の大きさを感じながら、タバコをポッケに入れた。フィルは残りの買い物を済ませようとスーパーと薬局をはしごし家路についた。
余った小銭をテーブルに戻し、食品を冷蔵庫にしまった。一息ついて、右手をポッケに突っ込んだ。小さな箱はまだあった。ゆっくりとテーブルの上に持っていき、一本取り出した。口に咥えてみたが、父がやるように煙は出なかった。
そういえば、父はタバコを吸う前は必ず両の手のひらでタバコを隠し、何かを指でいじって火をつけていた。そうか。火をつければいいんだ。タバコの紙に火が移って煙が出るんだ。フィルは、世界の秘密を見つけたかのように誰もいない家の中で一人舞い上がった。
でもどうすれば火をつけられるんだ?
壁はすぐさまフィルの前に立ちはだかった。父がタバコを吸うときぐらいしか、その手に収まるほどの小さな機械は見たことはない。いくら家の中を探してみても、それらしきものは見当たらない。ここまできて諦める選択肢はフィルにはなかった。どうにかして自分で買ったタバコを吸ってみたい。その溢れんばかりの好奇心に付き従っていつもより少し多く思考を回転させた。程なくフィルの懸命さは実りを結んだ。
そうか。わかったぞ。なぜこうも簡単なことを今まで思いつかなかったのか。いつもマッケンチーズを茹でるときに火を使っているじゃないか。その火を使えばいいんだ。フィルはタバコ一本を片手にキッチンへと歩いた。床には買い物のレシートや、お持ち帰りしたご飯を包むプラスチックの容器が散乱しており、もし失敗してタバコを落としでもした暁には、この家はたちまち灰と木屑になってしまうだろうと思った。
慎重にコンロに火をつけ、タバコの先端部分を青に光る炎に近づけた。タバコは一瞬にして着火し、先端から煙が上がった。ようし。この調子だ。あとはタバコを口に咥えて吸ってみるだけだった。フィルは深呼吸をして葉の巻かれた一本をゆっくりと唇へと移動させた。
中編「密売人」④ に続く
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