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【短編】『夏の思い出』

夏の思い出


 ぼーっと天井の一点を見つめていると急に耳鳴りがした。その耳鳴りとともに僕の夏は始まった。

 ビール、缶ジュース、バター、マーマレードジャム、氷、大根。これらが買い出しに行くための買い物リストではなく、冷蔵庫の中身というこの最低な状況下で、食材を調達するかあるいは、近くのファミレスに行くかという選択肢が僕の生命維持判断力を試した。そして、僕は迷うことなくファミレスへと出かけ試練を乗り切った。席に着くと、中年の女性店員がまだメニューすら見ていない僕に少しにやけた表情を浮かべながら注文を聞きにきた。およそ僕を小心者と判断して、慌ててメニューを開かせ忙しなく注文を待つ様子を見せつけることで僕に恥をかかせようといったところだろうかと読み解いた。しかし、そんな女性の圧力に臆することなく、僕はいつも自分が頼んでいる料理である海老とタコとムール貝のシーフードカレーの中ライスセットと、ローストポークと若鶏のミックスサラダと、焼き立てしらす明太トーストを流暢に暗唱した。女性店員は、急に表情を曇らせ、注文を繰り返した。そうして女性店員に不意打ちを喰らわせた後、水を取りに席を立った。ちょうどドリンクコーナーのところで後ろから自分の名前を呼ばれたと思い振り返ると、男子高校生が一人仲間からパシリにされて遠くからドリンクの注文を受けていた。ふと、僕はこの間出くわした不可解な出来事を思い出した。

 先日、家の近くの道をわけもなくふらついていると、急に背後から自分の名前を呼ばれ振り返ると、とてもしなやかで顔立ちの良い若い女性が僕の方を向いていた。すると、僕の落としたハンカチを手元に渡され、「では、また。」とニコリと笑って道を曲がっていった。ちょうど曇り気味だった空が晴れ、太陽の日差しが眩しかった。

 それからのこと、四六時中彼女のことが頭から離れず、自分は暑さでどうかしてしまったかとビールに逃げようと冷蔵庫を開けたが、生憎切らしていた。彼女と会った日のことを脳内で繰り返す中、なにか違和感を感じた。

「そうだ、あの時彼女は僕の名前を呼んだ。確かに呼んだ。ハンカチには名前を書いていないし、どうやって知ったんだろうか。もしや、彼女は僕に気があって、マンションまでつけてきて表札を確認したのではないか。いや、そうに違いない。」
と推理しているとインターホンが鳴った。

「もしや彼女が訪ねてきたか。」
と少し期待をしながら玄関のドアを開くと、作業着を着た男が立っていた。昨日ネットで注文した缶ビールの配達であった。不思議と残念な気持ちが湧き上がり、昼間にもかかわらずそのまま生温いビールに手を伸ばした。ますますひとり酒が加速していく一方であった。

 僕は彼女の名前を知りたくなった。街を出歩く際は必ず多焦点レンズのメガネを着用し、近くから遠くまで彼女の姿を探した。僕はどのつく近眼ということもあり、普段は単焦点レンズで良いが、なにかと便利だろうと多焦点レンズも作っておいたのだ。そのため、ハンカチを落としたのが酔っ払ってメガネを外していた時ではなくてよかったと思った。

 ある日買い物をしにスーパーへいった時のことだ。僕は食べ物を切らし一週間分の冷凍食品をカゴに入れ、長いレジの列に怪訝そうにしながら並んでいると、ちょうど列の前の方に、この前ハンカチを拾ってくれた彼女らしき人物を見かけた。距離があるのと混雑していたため顔を確認することができなかったが、髪色やヘアスタイル、そして体格が彼女そっくりであった。なんとかして彼女に声をかけて前回のお礼を言いたい。あわよくば名前を知りたいと思い、もはや自分の買い物を後にして、彼女がスーパーを出るタイミングを見計らって後を追おうと考えた。すぐにレジの列から外れ冷凍コーナーへ行き商品を戻して、再びレジの方へと向かった。ちょうど彼女は会計を終え、スーパーを出るところで、僕はホッとしながらも胸が高まった。彼女の後を追い背後まで来ると、急に今度こそ名前を聞こうという思いとは別に、もしこの女性が彼女ではなかったらどうしようという思いに苛まれた。しかし、ここまできて声をかけないという選択肢はむしろ自分の生命維持判断において適していなかった。人違いだったらそれはそれで良いではないか。いっそのこと相手も少なからず自分に好意を抱いているのだから、保険などかけずに堂々と前に現れて格好の良いところを見せるべきではないかとうつうつとしていた。ところが、こうして迷っている最中にも彼女は家に着いてしまう。着いてしまっては、僕は変人扱いされると焦り始め、やっとのこと踏ん切りがつき後ろから声をかけることにした。

「どうも、この前はハンカチを」と言いかけた時、
彼女はこちらに振り返り顔を見せた。結果は・・・残念ながらハズレであった。すぐに人違いをしたことを伝え、別の方向へと歩き出した。あまりにも期待しすぎてしまったことに対して、恥ずかしさと後悔の念が混ざり合った状態で帰宅した。

 ソファに座ってから再び彼女のことを考えているとお腹が空いてきた。すぐに今夜のごはんを含めた買い物をしそびれたことに気づいた。しかし今から買い物に行く気にはなれず、仕方なく近くのコンビニへ行くことにした。外出する準備はできていたので、そのまま部屋を出ると、ちょうど同じタイミングで隣の部屋の扉が開いた。咄嗟に中に引き返そうかと思ったが、これ以上他人に自分の時間を左右されたくないという思いから踏みとどまった。すると、なんと扉の影からハンカチを拾ってくれた彼女が現れたのだ。そして奥には男性の姿があり、事の経緯を把握した。僕は軽く会釈をしてから、忘れ物をしたかのように再び部屋の中へと去っていった。


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