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【歴史エッセイ】東京23区に残る中世の城跡

 よく城跡めぐりをしている。行くのはほとんど近くの城跡なのだけど。たまに米沢や会津などといった遠隔地にある城にも行っている(数年に一度なのだが)。

 天守閣や御殿、櫓のある城跡はいい。天守閣や御殿、櫓があるだけでも城跡に行ってきたという実感が湧いてくるからだ。そして、そうした城には外れはない。たとえ天守閣とか御殿、櫓が後世の人が建てた鉄筋コンクリート造りのそれだとしてもだ。


 東京の城といえば江戸城がまず先に思いつくだろう。かつては徳川幕府の歴代将軍が暮らし、明治からは天皇陛下のおわします宮城だからだ。だが、残念ながら天守閣や御殿は残っていない。火事で焼け、焼失してしまったためだ。

 東京には江戸城以外の城跡も存在する。存在するといっても、土塁や堀の跡がわずかに残っているくらいだ。

 そんな東京の城の代表として、練馬区に石神井城というお城がある。この近辺は心霊スポットとしても名高いので、歴史好き以外でも知っている人は多いのではなかろうか。

 石神井城は豊島氏の居城だった。

 豊島氏は平安末期から続いている名族で、坂東平氏の血を引いている。鎌倉時代には有力御家人の家の一つとして幕府の運営を支えていた。南北朝、そして室町と時代が変わっても家名は残った。

 だが、鎌倉公方家が古河に移り、関東管領を務めていた上杉家が力を持ってから、豊島氏の運命は大きく動くことになる。

 山内上杉家の有力家臣に長尾家という家があった。ちなみに長尾景虎こと上杉謙信は、この長尾家の一族から出ている。

 時の当主であった長尾景春は、山内上杉家の家宰になりたかった。だが、叔父がその役職についてしまった。

 どうしても家宰になりたかった長尾景春。家宰にしてくれなかった山内上杉家に一矢報いたかったのか、埼玉の鉢形城に籠って戦うことにした。後ろ盾には、上杉家と敵対している古河公方や一部の南関東の武士を味方につけて。

 この反乱に豊島氏の当主であった泰経は、弟と一緒に景春方に味方した。そして居城に立てこもり、山内上杉家に抵抗した。だが、途中で知恵者と名高い扇ヶ谷上杉家の家宰である太田道灌が出てきて、豊島氏を滅ぼしてしまった。

 豊島氏が滅びたとき、泰経の娘であった照姫は、家宝の鞍をつけた白馬と一緒に石神井池に沈んだと伝えられている。

 ちなみに石神井池が心霊スポットされている所以に、先ほど記した逸話は深く絡んでいる。なんでも、石神井城の隣にある石神井池には、夜になると水面に女の浮かび上がるという噂がある。この女性は照姫の霊ではないかと言われているが、真相のほどは定かではない。

 二つ目に紹介するのは、板橋区の北側にある赤塚城跡。

 赤塚城は、同族同士の争いに敗れ、太田道灌を頼って武蔵へ逃れた千葉氏の一族が拠点としていた。道灌の主君扇ヶ谷上杉家の影響力が弱まると、武蔵にいた千葉氏の一族は、後北条氏(北条早雲の系統)に仕えた。だが、豊臣秀吉の小田原攻めで滅ぼされた。

 赤塚城の跡は小高い山にある。山の上に本丸が、その下には水堀があったそうだ。

 本丸跡は見晴らしがいい。高島平の住宅街やお隣埼玉県戸田市の様子を眺めることができる。それに本丸辺りは広場になっているので、晴れの日にピクニックへ行ったら、いい気分になれるだろう。水堀は現在溜池となっており、釣り堀として使われている。

 赤塚城跡は、志村や高島平辺りに住む板橋区民の憩いの地となっているのだ。


 最後に紹介するのは、世田谷城。招き猫で有名な豪徳寺の隣にある。

 世田谷城は、代々吉良氏が居城としていた。

「吉良氏」

 と聞いて、忠臣蔵の悪役吉良上野介を連想した人もいるだろう。

 世田谷城を拠点としていた「吉良氏」は、吉良上野介の吉良氏と同じ一族だ。系図をたどれば一つのところに行きつく。

 吉良氏についてだが、この一族は足利氏の一族で三河の守護をしていた。桶狭間の戦いで敗れた今川義元も、この一族から出ている。

 そんな源氏の血を引く吉良氏が、室町から安土桃山時代の中ごろまで、代々この地を治めていた。

 隣にある豪徳寺についても、少し話しておこう。

 豪徳寺は曹洞宗の寺院。代々彦根藩主を務めていた井伊家の菩提寺の一つとされている。

 実はここ豪徳寺も、吉良氏と関わりがある。

 言い伝えでは、豪徳寺は時の世田谷城主であった吉良政忠が、叔母の供養のために建てた寺院が前身となっているらしい。その寺院は、叔母の戒名から「弘徳院」と呼ばれていたそうだ。

 井伊家の菩提寺となったのは、彦根藩二代藩主である直孝のころで、弘徳院が豪徳寺になった


 東京にある江戸城以外の城跡には共通点がある。

 一つ目は都心や副都心から少し離れた区に存在すること。二つ目は時代の流れの中で城主を務めていた一族が滅びていること。

 一つ目に関しては、都心や副都心は急速な開発の影響が大きいためだろう。よほどのことがなければ城跡は残らない。対して都心や副都心から離れた場所は、開発の影響が少し弱まってくる。だから、江戸以前の城跡が残りやすいのだろう。

 二つ目に関しては、中世から近世初期の関東平野が動乱の真っただ中にあったことが大きい。鎌倉公方の衰退、古河公方と上杉家の対立、後北条氏の関東進出、上杉謙信の関東越山、豊臣秀吉の小田原攻め。いろいろなことが起きている。だから、情勢を読んで行動しなければ、家名存続はまず難しいと言っていい。

 他にも様々な要因があるのだろうが、尺の都合でここら辺で割愛しておこう。

 天守閣や御殿、櫓のない城跡もいいものだ。遺構がないから、想像力や知的好奇心を掻き立てられる。それよりも静かで心地いい場所が多いから、ちょっとしたリラックスにもなる。近くに住んでいる読者は、休みの日や早上がりの日に立ち寄ってみてはどうだろうか。


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