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【エッセイ】安房②─館山城の模擬天守と南総里見八犬伝の思い出─『佐竹健のYouTube奮闘記(58)』

「もう関東城めぐりが終わるのか」

 館山城の天守閣と咲き誇る河津桜を見ていた私は、感慨深い思いに包まれた。

 思い返せば、いろんなことがあった。

 電車の中にあるトイレに驚いたり、ボタンを押さないと開かないドアだったり。あと、目的の城に行けなかったことや、電車が来るまで1時間待たされたこと、武州の山を眺めながら高崎を目指したこと。どれもこれもが懐かしい。

 相模編からは下総編はいつもの遠征だったから、さほど驚きは無かった。けれども、いつも行っている場所の良さとか面白さを再発見できたから、それでいい。

 灼熱の季節や紅葉狩り、年末年始のあれこれで休止することもあった。休み休みではあるけど、こうして関東八州の城を巡ることができた。

 関東城めぐりは、これにて達成された。


 天守閣を近くで見た。

 天守閣の1階の大部分は黒塗りの木で、窓の上の部分の少し上からは、白い漆喰が塗られている。この日の天気が曇りであったせいか、3階建ての天守閣はちょっとこれから一波乱ありそうな感じの雰囲気を醸し出していた。

 天守閣の右脇には、館山の街を一望できる見晴らしのいい場所があった。

 右側には山と所狭しと家々が建ち並ぶ平野があって、左側には海がある。左側の海はきれいな半円形を描き、向こうの山地へと続いている。

(眺めがいいな……)

 山を少し登ったら、ここまで街と山の風景が見えるとは。私は、徳川幕府が里見氏を安房館山から追い出そうとした理由が、少しわかった。良い港と良い城を持っていたからだ。

 良い港については、まず館山の地が山々とした房総半島の先端にある平野であることだろう。そのため、海路で相模や武蔵、下総に簡単に行くことができたので、関東圏の交易の港町として栄えた。また、弓形の湾というのが港として最適というのもあるのだろう。

 良い城を持っていたことは、館山城が見晴らしのいい山の上にあるということだろうか。今立っている場所から街を一望できることからわかるように、眺めがいい。眺めがいいということは、敵を見つけやすいということに繋がる。だから、仮に館山の地に敵が海から攻めてきたら、早く対応することができるし、上陸されたときは、敵が何をしているかとか、どこへ進むかわかりやすい。そして城のある山地に砲台を仕掛けておけば、敵の舟を沈めることだってできる。これらの背景があるからなのか、旧帝国海軍はこの館山城の跡地を改装して砲台として使っていたと聞いている。館山が良い港があって守りに適している地というのは、軍事や兵法、軍学の素人である私の私見なのだが。

 とにかく、これだけのポテンシャルを秘めた土地に、地元に影響力があって血筋のいい戦国以来の名家がいるのは、徳川幕府にとって脅威である。それゆえに徳川幕府は、里見家を追い出したかったのであろう。


「そういえば…」

 私は館山城の模擬天守の中が博物館になっていることを思い出した。

 館山城の天守閣は模擬天守で、中は麓の博物館の分館となっていて、館山ゆかりの作品『南総里見八犬伝』にまつわる展示となっている。

 その天守閣へ、私は入った。

 中には『南総里見八犬伝』の登場人物や作者の滝沢馬琴に関する解説がされたパネルがあった。他にも、『南総里見八犬伝』の双六や信乃と現八が古河城の天守閣の屋根の上で戦うシーンを再現したペーパークラフトのようなものが展示されていた。あと、メンコとかその辺りもあった気がする。

 3階は展望台となっていて、先ほど見た町と海をさらに高い位置から見ることができる。

 館山城の天守閣からは、亥鼻城や椎津、木更津から見えた鉄骨で組まれた煙突は見られなかった。


『南総里見八犬伝』は、中学生のときに一度読んだことがある。といっても、伏姫から八つの玉が生まれ、関東各地に散るところから、犬江新兵衛誕生まで書かれた現代語訳なのだが。

 その中で一番印象深かったのは、犬塚信乃が、古河公方である足利成氏に、父から預かった村雨丸を返上するところ、そして犬飼現八と古河城の天守閣の上で戦うところであろうか。

 犬塚信乃は、父が自害する前村雨丸を託し、これを昔賜った成氏に返すように言った。信乃はこれを持って、下総国にある古河(現在の茨城県古河市)へと旅立った。だが、この村雨丸は途中で弥々山蟇六(大塚村の荘官)の陰謀により偽物と入れ替えられてしまう。そして成氏と対面するのだが、村雨丸が偽物と入れ替えられていることを知らない信乃は、偽物をそのまま差し出してしまった。

 村雨丸が偽物だとわかった成氏は、信乃を捕らえるよう部下に命令した。そして、捕らえられていた捕物の名人犬飼現八を解放し、古河城の天守閣で睨みあった。しばらく大立ち回りをした後に川へ落下し、行徳(今の千葉県市川市の辺り)へと流されるという展開であった覚えがある。

 一連のこの流れを読んだ私は、

(本当にこれが江戸時代の後期に書かれた小説なのか!?)

 と思った。江戸時代に書かれた小説にしては、現代の少年漫画に通ずる、これからどうなる!? というワクワク感があるのだ。学校の教科書にある説教じみた説話集の一話や無常観ばかりを強調する随筆や軍記物にはない新鮮な展開だった。

 面白かったので、私は読み進めていった。だが、新兵衛が誕生してから終わっていたので、続きが気になって仕方がなかった思い出がある。今ちょうど持っているから、また読み返してみようと思う。


 今思えば、『南総里見八犬伝』は、いろいろおかしい。時代設定は戦国時代前期なのに、天守閣が出てきたり、鉄砲が出てきたりしているからだ。また、里見義実が安房へと来た動機も、よく考えてみると少し違和感がある。後者に至っては、これが史実だと思っている人も多い。

「まあまあ、物語だからそこまで目くじらを立てなくてもいいではないか」

 という声も上がってきそうなので説明するが、これを言ってしまえばオシマイである。だが、これでは済まされないほど、『南総里見八犬伝』の矛盾はひどい。

 まず、『南総里見八犬伝』の時代には鉄砲は存在しない。

 この鉄砲が登場するのは、金腕大輔(かなまりだいすけ)が犬の八房を撃とうとしたが、誤って伏姫を撃ってしまうシーンだ。この後伏姫は、その際八犬士の誕生と八つの玉を散らして亡くなる。

 ここでよく考えてもらいたい。『南総里見八犬伝』の時代は、15世紀中ごろから後半、大体室町中期から後期である。この時代に、鉄砲は存在しない。

 読者の皆さんもよく知っているように、火縄銃は1543年に種子島に行き着いたポルトガル人により伝えられた。正確には、中国人海賊の王直の船に乗っていたポルトガル人なのだが。

 だが、この矛盾については、上手く解決できる言い訳がある。金腕の持っていた火縄銃が、西洋式のものではなく、明国から伝わったタイプのものであると言い切るのだ。というのも、1543年以前に明国から、槍の柄に小さめの大筒みたいなものがついた火槍という火器が伝わっていたとする説があるからだ。この火器についてもっとわかりやすく説明すると、『もののけ姫』でエボシ様が荒廃した山で、抵抗する山狗を狩っていたときに部下の石火矢衆に使わせていたものをイメージしてもらえるとわかりやすい。

 金腕が誤って伏姫を撃った鉄砲が、西洋式のものではなく、明国から伝わったタイプのものであるなら、ギリギリセーフであろう。

 天守閣については、前に話したように、同じ室町・戦国でも、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた時代に登場した。これに関しては、上手く言い訳できないので、先ほど記した信乃と現八の話は、時代考証を本格的にやるとなると、天守閣ではないどこか別の見栄えがする場所でやらねばなるまい。

 いろいろおかしいところがある『南総里見八犬伝』であるが、それ以上に面白いの方が大きい。テンポのいい展開や捕らえられた仲間を助けるところ、主人公を助けるために自らの命を差し出すキャラがいるところは、今の少年漫画やアニメに通じている。後世の日本の創作物に影響を与えているということを考えると、『南総里見八犬伝』という作品には、日本人の精神に訴えかける何かがあるということになろう。


 長々と『南総里見八犬伝』について語ったが、話は2024年2月16日の館山に話は戻る。

「さてと、次はどこへ行こうかな?」

 天守閣を出た私は、次の行き先である北条海岸へと向かおうとした。そのときに片方の先が尖った案内板に「梅園」と書いてあった看板を見つけた。

「梅園か。少し行ってみようかな」

 ちょうどこの時期だし、梅もきれいに咲き誇っているだろう。そう思った私は、梅園を見に行こうと決めた。

(続く)


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