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【エッセイ】鎌倉①─鎌倉と源氏の英雄─(『佐竹健のYouTube奮闘記(28)』)

 大庭城へ行ったあと、バスに乗って湘南台駅へと向かった。そして藤沢駅で江ノ電に乗り、鎌倉を目指した。ここから春、梅雨、秋の恒例行事である鎌倉遠征が始まる。今回の鎌倉遠征は、城めぐりがメインだから、かなり小規模に行うつもりでいるけど。

 濃い緑に薄い黄色のラインが入った小ぶりな路面電車の車両は、中にたくさんの乗客を詰め、藤沢から石上、柳小路と進んでいく。


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 動画でも度々取り上げているように、鎌倉へは何度も訪れている。今回で少なくとも10回目になるだろうか。動画では大体毎年、春か秋に行ったときのものを上げている。だから、鎌倉に関する話はいくらでも持っている。

 まず最初に、鎌倉の入り口腰越の話からしよう。

 腰越に行ったのは、春の鎌倉遠征でのことだった。

 腰越に行こうと思った理由は、和田塚を見て、由比ヶ浜の海も見たからどこへ行こうか考えていた。そのとき、義経ゆかりの満福寺というお寺をGoogleMapで見つけたからだ。

 満福寺にはこんな逸話がある。

 壇ノ浦の戦いに勝利した義経は、生け捕りにされた平宗盛とその息子清宗を連れて京都へ凱旋した。そのあと兄頼朝のいる鎌倉へと向かおうとした。だが、なぜか頼朝は義経の鎌倉入りを許そうとしなかった。

 腰越の満福寺に滞在していた義経は、自身の功績と潔白を書いた書状をここで書いたとされている。これが世に言う腰越状だ。

 だが、頼朝の心には響かなかったようで、義経の鎌倉入りは許されることがなかった。

「なぜ頼朝は、義経の鎌倉入りを許さなかったのか?」

 これについては、平家討伐に参加していた梶原景時が、陣中での義経の悪行を頼朝に伝えたからだと言われている。

 鎌倉入りができず、泣く泣く京都方面へ向かった義経は、近江で宗盛の首を刎ねた。

 平家滅亡後の義経の悲劇については、またの機会に語るとしよう。

 満福寺はどこの街にもあるような小さなお寺だった。だが、お寺にある歴史や由緒といったものは、それに反してかなりのボリュームがあった。

 例えば、弁慶が腰かけた石や手玉に取った石がある。他にも、腰越状にまつわる彫刻なんかも寺の建物に施されていたりした。ちなみにこれは後で知ったのだが、弁慶が墨をする際に水を使った池や、後世に作られた義経の生涯を描いた襖絵なども残されている。

 去年の春の鎌倉遠征では、池や義経の生涯を描いた襖絵を見ることができなかった。いつかまた鎌倉遠征へ行く機会があったら、また行ってみようと思う。


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 江ノ電の車両は、藤沢を通過し、鎌倉の落ち着いた町の中へと入っていった。そして先ほど話した腰越を通過したときに、鎌倉高校前に着くアナウンスが聞こえた。

(そろそろ海が見える)

 江ノ電の路線には、海が見えるところがある。

 晴れている日に車窓から見える稲村ヶ崎や鎌倉高校前の海は美しい。お昼には、水色の空と陽の光を反射してきらめく群青色の海が美しい。夕方になると、空が真っ赤になって、崖の向こう側に沈んでいく夕日。このうち、どれか一つを見るために、私は鎌倉へ来たとき、いつも海を見に行く。

 海はいい。目の保養にもなるし、何より波の音を聞いていると癒される。

(稲村ヶ崎か)

 私は稲村ヶ崎と聞いて、こんな話を思い出した。


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 1333年源氏の血を引く上野国の武士新田義貞は、鎌倉を攻めた。その際周辺を守っていた最後の執権赤橋守時と戦い、稲村ヶ崎から鎌倉へ入ろうとした。だが、海が荒れていて攻められなかった。

 そこで義貞は黄金造りの太刀を龍神へと捧げるべく、海へと投げた。すると波は退き、周囲を守っていた鎌倉方の軍勢が乗る船は海へと沈んだ。

 そして義貞は鎌倉へと入り、最後の得宗北条高時を東勝寺へ追い詰めた。

 追い詰められた高時は、東照寺に火をかけ、一族と自害し果て、頼朝の開創以来150年栄えた鎌倉幕府が滅びた。

 新田義貞で思い出したが、彼はどこか木曽義仲に似ている。同じ源氏で親族と対立したこと、そして死に方がよく似ているのだ。

 木曽義仲の場合、源頼朝というライバルが東にいた。頼朝とは従兄弟の間柄になる。

 挙兵当初は関東進出を避けて北陸から平家勢力を攻め、京へ上った。だが、相次ぐ失政や世間知らずな言動から後白河院に疎まれ、最終的に義経と範頼率いる鎌倉勢にやられてしまった。最後義仲は乳兄弟で竹馬の友であった今井兼平に守られながら自害しようとするが、深田にハマり、流れ矢に当たってしまい亡くなってしまう。

 新田義貞には、足利尊氏という同族が東にいた。頼朝と義仲ほどではないが、義貞と尊氏は血が近い。平安時代の終わりに源義国という人物がこの一帯を拠点とし、その息子二人が上野の新田の地と下野の足利の地を譲り受けた。

 頼朝挙兵のとき、足利家はすぐ頼朝に味方した。だが、新田家は遅れて頼朝に味方した。この関係で、鎌倉幕府では足利家は優遇され、新田家は冷遇される形となった。だが、義貞が鎌倉幕府を滅ぼしてからは、新田家は幕府を滅ぼした功労者ということで、足利家と同等の扱いを受けることになる。

 建武の親政は公家ばかりを優遇していたため、倒幕からわずか3年で破綻した。そして尊氏は、大覚寺統の後醍醐天皇を見限り、持明院統の光厳天皇を立て、征夷大将軍の位をもらった。南北朝時代の幕開けである。

 対する義貞は、引き続き後醍醐天皇に仕え、楠木正成、北畠顕家らとともに南朝を支えていった。

 ここから、足利と新田の対立は明白なものになっていった。

 義貞は南朝に着き、尊氏と戦った。この戦いで、義貞は仲間を助けに行く途中流れ矢に撃たれ亡くなった。

 二人の最期に共通して言えるのは、

「カリスマ性のある親戚と戦ったこと」

「死の直前に仲間の存在があった」

 ということだろう。

 まず、「カリスマ性のある親戚」については、義仲の場合は頼朝、義貞の場合は尊氏といった具合だ。義仲も義貞も、時代の流れと武家の棟梁として歴史に名を残す親戚と対立し、滅んでいった。

「死の直前に仲間の存在があった」

 これについては、義仲の場合は幼少期からの今井兼平という友人、義貞の場合は同志といったところか。守られているか、守ろうとしたかの違いはあるが、いずれにせよ仲間が関わっている。

 誰かから守られるような愛らしさとか、誰かを守ろうとする心の強さとか。そうしたものが義仲と義貞にあったから、今でも彼らは英雄として現代まで語り継がれているのだろう。


   ※


「木曽義仲、源義経、新田義貞。思い返してみれば、みんな源氏一族の悲劇の英雄だね」

 朝敵になったか忠臣かはさておき、この3人は同じ源氏で、悲劇的な亡くなり方をしている。そしてその死に際は、今でも歴史の一幕として語り継がれている。

 話し忘れていたが、木曽義仲と鎌倉の関わりについては、彼の息子義高が人質として鎌倉に送られたことがある。だが、父の義仲が頼朝に盾突き、義経と範頼に討ち取られたとき、生かしておけないと思った頼朝が放った武者に殺された。

 余談だが、頼朝の娘大姫は義高と婚約をしていた。だが、義高が殺されてからは心身を病んでしまったのだとか。

「やはり中世の鎌倉は恐ろしいところだね」

 粛清。対立。常にその繰り返しなのが、平安末期から鎌倉時代の歴史なのだから。


   ※


 江ノ電の車両は、海の見えるところを走っていた。

 残念ながら、時期が梅雨ということもあってか、空は白く曇っていた。

 白く曇った空の下を、深く、黒々とした色の海は砂浜へ波打ち、白波となってはまた戻っていく。

 私は車窓から海を眺めた。新田義貞の話を思い出したりしながら。

(続く)


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