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武田清子 『背教者の系譜 日本人とキリスト教』 : どこまでも 探求可能な〈不在〉

書評:武田清子『背教者の系譜 日本人とキリスト教』(岩波新書)

著者は、思想史、キリスト教倫理、宗教哲学の研究者で、著名なアメリカの神学者ラインホールド・ニーバーに師事した、プロテスタントの学者である。

著者のかねてからの重要テーマのひとつが「宗教(思想)の土着化」の問題だ。
「宗教の土着化」とは、例えば、キリスト教が日本という土地に持ち込まれた際に、その特有の土地柄のなかへ、どのようなかたちで定着させていくのか、といった問題である。

例えば、日本では、キリスト教の伝来以来、あるいは戦後の信教の自由化以来の長い年月を経ても、いまだにキリスト教徒の数は、全人口の1%前後しかいないと言われるが、お隣の韓国では、戦後の短期間においてキリスト教徒が国民の4分の1(25%)を占めるにいたっている。
これは、まさに、それまでの歴史や時代背景をも含んだ、その国の国柄や土地柄、国民性といったものの違いによる結果だと言えるのだが、しかし、その韓国でキリスト教が広まった大きな要因として、外来のキリスト教が、韓国社会で昔から存在したシャーマニズムと混交したからだ、とも言われている。つまり、土着の宗教と混交することで、キリスト教は「土着化」に成功したのである。
一方、日本のキリスト教会はどうかというと、それは無論いろんな教派があるとは言え、基本的には、西欧のキリスト教を「そのまま」移植しようとして、うまくいっていない、ということらしい。つまり、キリスト教の「純血主義」であり「正統主義の保持」である。

このように、キリスト教の布教における「土着化」の問題は、キリスト教信仰というものの「本質」を、どう考えるのかという「本質論」と絡んでくる。
つまり、ヨーロッパで成立したキリスト教の「信仰形式」を、「そのまま」広めなければならないという「形式重視主義」の考え方と、キリスト教の「本質」さえ曲げなければ、土地土地に合わせて「形式」を変えてもかまわないという「本質主義」の二通りが存在するのである。

言うまでもなく、カトリックには「形式重視主義」の傾向が強く、プロテスタントには「本質主義」の傾向が強い。
もちろん、どちらにも「融通の利く人と融通の利かない人」がいるので、一概には言えないものの、何と言っても指揮指導系統がハッキリと構築されているカトリック教会の方が、「万人司祭」の平等主義であるプロテスタントよりも「形式重視」であるのは避けられないことなのだ。

さて、本書の著者である武田清子は、プロテスタントである。したがって「キリスト教の土着化」における「形式問題」についても、極めて柔軟な立場であり、それは本書でも示されているとおり、キリスト教を捨てた「背教者」の中にさえ「神を求めようとした者の真剣な姿」を見て、それを高く評価しようとするものである。

つまり、武田のキリスト教信仰とは「教会の壁の、内側にいるか外側にいるか」が本質的な問題ではない。本質的な問題は、その人がいかに真剣に「神を求めて生きているか」だ、というところにあるようなのだ。
そして、これは日本のキリスト教会の「純血主義」であり「正統主義の保持(保守性)」への批判であるとも言えよう。「形式」に安住しているからこそ、肝心な「救済の宣教」をなし得ていないのだ、という批判である。

武田のこうした考え方は、キリスト教徒ではない多くの人の理解を得やすいところであろうし、無神論者である私でも、基本的には好意の持てるものだ。
しかし、武田の「非形式主義」あるいは「本質主義」には、本質的な難問がつきまとう。それは「教会の外」や「形式の外」に「神」を求めることが正しいとしたならば、その「神」とは「キリスト教(の言う)神」なのか、という本質的な疑問である。

武田の「本質論」からすれば、「キリスト教の神」は「形式」を超えて、すべての物事に対して「本質的に正しい」神だということになるだろう。
しかし、「神」をそのように規定してしまえば、それは「理想」と、いったいどう違うのか、ということになってしまうのだ。

「形式」的に限定されているからこそ、それは「イスラームの神」でも「仏教の仏」でも「ヒューマニスティックな倫理的理想」でもない、「キリスト教の神」だという「固有性」を認めることも出来るわけだが、「形式」を外して「本質」を考えれば、それは「形式を通して」、その向こう側に存在する「理想」の探求ということと、同じになってしまうのではないか。

「背教者の神探求」は、たしかに「形式主義的信仰」などより、ずいぶん真摯で、より深いものであることが多いだろう。だから、「教会の壁の外に、真の神を求めた」背教者たちの「信仰」を高く評価すること自体は、まったく正しいことだ。
だが、それを認めた時に、果たして「キリスト教という形式」が、「方便としての形式」ではなく、真に固有の存在意義を持ちうるのかというと、私はそれを疑わしいと考えざるを得ないのである。

初出:2019年7月2日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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