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コロナ後も〈学ばない人〉に進歩はない。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nfced1c06423d書評:大野和基編『コロナ後の世界』(文春文庫)

歴史的な「コロナ禍」を経験したとしても、自身が罹患して苦しみでもしないかぎり、普通の人は、そこから何も学びはしない。同様に、本書を読んでも、読みたいことしか読みとれず、何の進歩もない読者が少なくない、というのは、本書のレビュー欄を一瞥しただけでもよくわかる事実だろう。
しかし、これはこれで、良い教訓とできる(人はできる)のかもしれない。

たしかに、独裁国家である中国は酷いけれども、中国が酷い酷いとわかりきったことを言いつのったところで、わが国の政治が良くなるわけでもなく、PCR検査実施率の低さにおいて、先進国では最低レベルの検査実施率後進国であるいう事実などが変わるものでもない。

言うまでもなく、大切なことは、わが国の現状であって、よその国のことではない。
よその悪口を言っていれば、ひとまず安心してられるというのは、単なる「現実逃避」であり「知的怠惰」でしかないのだが、そんな人たちには、世界有数の知識人たちの言葉も、自らの現実逃避を強化するネタにしかならないようだ。

こうした観点からすれば、多少なりとも「自己相対化=自己批評」の可能な読者が注目すべきは、スティーブン・ピンカーの提案であろう。

『 インターネットやSNSにおいては自分が見たい情報しか、見えなくなりがちです。それを「フィルターバブル」と言います。我々は、自分と異なる意見を持つ人々に対して「彼らはフィルターバブルに入っている」と一蹴してしまいますが、私たち自身もフィルターバブルの中にいることには気が付いていません。
 自分が正しいと思わせてくれるストーリーや記事を読むのは楽しいものです。反対に、自分の見方に批判的な内容に触れることは不快です。しかし、健康に過ごすため、食べすぎずに運動を心がけるように、自分とは異なる意見も傾聴すべきです。
 普段から、自分と意見の異なる人と積極的に意見交換した方が良いでしょう。
 教育を受けたはずの科学者でさえ、この落とし穴の例外ではありません。私が「バイアス・バイアス」と呼ぶ誤謬があります。自分もバイアスに囚われているということを忘れ、自分とは意見の違う人こそがバイアスを持っていると思いこむことです。
 あるリベラルな三人の社会科学者は「保守はリベラルより敵対的かつ攻撃的である」と言う論文を発表しました。しかし、実はデータの分析を誤っており、本当はリベラルの方が敵対的かつ攻撃的だということに気が付き、論文を取り下げたのです。』(P129〜130)

最後の「三人のリベラルな社会科学者による誤謬」の部分を読んで、「そうれ見ろ」と溜飲を下げた「保守」または「右派」の人は、ピンカーの話を、まったく理解できなかった人、だと言えるだろう。
つまり、自身の「フィルターバブル」について無自覚で、無反省な人だということである。

「リベラルが、保守よりも、敵対的かつ攻撃的である」というのは、しごく「当たり前」の話であり、恥じる必要もないことである。
と言うのも「リベラル」というのは「自由と平等のために、既成の不完全な体制と戦うスタンス(改革的立場)を採っている人たち」であり、「保守」とは「既成の体制を保守擁護しようとする人たち」のことなのだから、「リベラルが、保守よりも、敵対的かつ攻撃的である」というのは、当然の話なのだ。

それを「人間は、友好的かつ融和的であるべきだ」という「原則論」しか眼中になく、時と場合によっては「敵対的かつ攻撃的である」必要もあるという「現実」を見られない人たちが、無闇に自身を「友好的かつ融和的である」と規定したがり、敵を「敵対的かつ攻撃的である」と規定したがるだけなのである。
人間は、そんなに簡単で一面的なものではあり得ないというのは、すこし考えればわかりきった話なのだが、考えない人は、そのことにいつまでも気づけないのだ。

ともあれ、ここでピンカーが提案していることは、きわめて常識的なことであり、誰もが一応は「わかってはいる」ことでしかない。
しかし、それが実行困難なことであるからこそ、私たちは何度でも、この「反省点」に立ち返らなければならない。自分の意見に凝り固まるのではなく、広く他者の意見に耳を傾けるべきであり、その上で、自身の意見を練り上げるべきなのだ。
考えを練り上げることと、凝り固まることとは、決して同じではないのである。

このようなわけで、いろんなジャンルの知識人の提案が詰込まれた本書は、他人の意見を傾聴できる人には、きわめて有意義な一書となるだろう。
だが、そうでない人は、本書の中の「自分好みの意見」しか楽しめないので、全体としては効率が悪く、自ずと「本書に良い点数は与えられない」ということになるのである。

日本では昔から、これを「猫に小判」「豚に真珠」と言ったりしたことを、読者は思い起こすべきであろう。これは決して、目新しい現象ではないのである。

初出:2020年7月30日「Amazonレビュー」

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