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江戸から赤穂までって4日半で行けるの?【歩いて目指せ日本橋18日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たかった人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅した18日間の記録です。

【前回の記事】 

【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。


【前回の記事】

武蔵国・神奈川宿(神奈川県横浜市)


おはようございます。いよいよ18日目、最終日の朝です。
前日に続き今日もあいにくの悪天候で、雨がぱらつく程度ですが降っています。


田中家

今となっては建物だらけで何も見えませんが、台町というこの辺りは神奈川湊沿いの景勝地で、オーシャンビューを売りにしたお茶屋さんが立ち並んでいたそうです。坂本龍馬の妻・おりょうが働いていたという名店・田中家(さくらや)もその一つです。

こんな感じだったらしい キレイ!


横浜様の渾身のデザインプレート

デザインがいちいちオシャレやねん

横浜らしく西洋チックなデザインプレートがありました。浮世絵の一コマを切り取ったイラストの周りを、横浜市内にある宿場町の名前と、「日本橋30キロ」の文字が囲んでいます。京都を発った当初は、日本橋までは500キロ近くあると絶望したものですが、千里の道も一歩からとはよく言ったもので、地道に歩き続ければ500キロから30キロ圏内まで辿り着くことができるんですね。。。(「桑名〜名古屋間は歩いてへんやんけ」とかは言っちゃダメです)

生麦事件碑

幕末の外国人殺傷事件「生麦事件」の跡地です。
1862年、薩摩藩の島津久光一行とイギリスの商人4名がこのあたりですれ違った際、薩摩藩士は道を開けるように伝えましたが、イギリス人達は中々要望通りに動かず、主君の行列を乱す商人たちに薩摩藩士は抜刀、4名中3名を殺傷しました。当時の日本では大名行列を横切る者を「無礼打ち」することが認められていたので、薩摩藩士の対応は特段珍しくはありませんでした。とはいえ日本の侍が非武装の外国人を斬りつけたという一大事が看過されるわけもなく、イギリス政府は薩摩藩に賠償金と犯人の死刑を要求します。しかし、薩摩藩はこれを拒否し、事態は両者間の軍事衝突へと発展しました(薩英戦争)。
京都に住んでいると、ここ最近はよく外国人のマナー違反の話題をよく聞く気がします。文化・言葉の壁ゆえの悪意なき行為なのか、地元民を下に見たゴミカス仕草なのか、一概にはいえませんが、後者である場合は、無礼打ちまではいかずとも、それなりの牽制ができる日本であってほしいと強く思います・・・。

市場村一里塚

江戸から5里の位置にある一里塚です。1里が約4キロなので、ゴールの日本橋まで残すは約20キロです。がんばるで・・・。

武蔵国・川崎宿(神奈川県川崎市)

シャッターに東海道の浮世絵👏

神奈川県内の最後の宿場町・川崎宿です。
当初、川崎は東海道の宿場町には含まれていませんでした。
今日の出発地・神奈川宿とこのあと向かう品川宿までは約20キロです。宿場町間の距離は長くて15キロ程度なので、それよりも少し長いですが、べらぼうに遠いわけではありません。
では何故川崎に宿場町を設けたのかというと、江戸時代の「伝馬制」が関わっています。東海道の宿場町の本質は宿泊エリアではなく、公用の文書や荷物を運ぶ上での中継地点でした。江戸時代、各宿場町には公用の書類や荷物を運ぶための人/馬(伝馬)がおり、次の宿場町まで運んで引き継ぐリレー形式で運搬が行われていました。各宿場は運び手を幕府に提供する代わりに、宿泊施設を置いてそこから収入を得ることが許されていたというわけです。

静岡・藤枝の伝馬の様子


リレー形式ですので、次の宿場町への運搬を終えた人と馬は自分の宿場町へと戻ります。つまり、川崎宿がないと、品川と神奈川の人馬は往復40キロの移動が発生するのです。これは流石に酷だということで、新たに川崎宿が設けられたのでした。

宿場町としては後発組の川崎ですが、昔から川崎大師の門前町として栄えていた地域でした。18世紀からは六郷川(多摩川の下流域)の船渡しを請け負い、そこから大きな収入を得ていたそうです。

広重の浮世絵にも当時の渡しの様子が描かれています。


東海道かわさき宿交流館

川崎に来たら是非訪れたいと思っていた、東海道と宿場町について学べる施設です。開館直後に訪問したので貸切でした!

階段に宿場町の浮世絵をあしらう激エモ演出です。こんなに感慨深く踏み締める階段は、後にも先にも東海道かわさき宿交流会だけです。


旅の間、浮世絵と同じ画角で写真を撮ることに命をかけていたので、この18日間でどの絵がどの宿場町なのか瞬時にわかるようになった筆者は、「東海道五十三次を西から順番に全部言える&浮世絵を見ただけで宿場町が当てられる」ことが特技だとと嘯いていはドンずべりしています。哀れなOLです。

エンドロールです

旅もいよいよ終盤なので、展示内容は旅のエンドロールのようでした。逆に、東から東海道踏破を目指す旅人の方はこれを序盤に見るんですね・・・。残念ながら滋賀/京都には同様の施設はないので、旅の終盤にこのエモ体験ができるのは西からの旅人の特権です。

さて、前述の通り、江戸時代に川崎から江戸に入る方法は渡し船一択でした。この日のような天気の場合は船が欠航になり、川崎で1日待ちぼうけするハメになっていたかもしれないですが、令和の今は橋という人類の叡智の結晶があるので、雨の日も風の日も楽々江戸に入ることができます。これまでも何度も書きましたが、東海道を歩くととにかく橋梁技術の進歩にひれ伏します。


🗼TOKYO🗼

ギャーーー‼️‼️



東京の文字を見て叫びそうになったのは、東京五輪発表時以来です。来ちゃったよ東京!!!!!

鈴ヶ森刑場遺跡 

東京に入って1発目の写真は、江戸二大処刑場の1つ、鈴ヶ森刑場です。刑場には、真ん中に穴がある石の台があったのですが(写真は流石に撮りませんでした・・・)この穴に柱を立てて罪人を括り付け、火炙りや磔など、見せしめの刑が行われていました。
江戸の玄関口に刑場とか物騒すぎない?と思ったのですが、この刑場が設置された当時は浪人たちの犯罪率が高かったことから、江戸に来た人達を牽制するために、あえてここに作ったそうです。歌舞伎や文楽でも知られる八百屋お七(片思いしている男性に会いたいがあまりに放火した少女)も、ここで火炙りに処されています。

武蔵国・品川宿(東京都品川区)

53次コンプだ〜!!!

いよいよ最後の宿場町、品川です!!!!
これで滋賀県の大津に始まる東海道上の五十三の宿場町はコンプリートです。本当に長かった😭
私にとっては最後ですが、品川は江戸側から見れば最初の宿場町です。江戸を発つ人の見送り、到着した人の出迎えなども多く、大層賑わったそうです。
品川は新幹線の駅周辺しか彷徨いたことがなかったので、バリ都会やんけという印象しかなかったのですが、往時の品川宿の中心地は、地元のお店がずらりと並ぶ、この下町情緒あるエリアだったんですね。道の幅は江戸の当時と同じだそうです。

本陣跡

滋賀・大津から幾多の本陣(VIP用ホテル)を見てきましたが、これが最後です。
石碑のそばには、滋賀の土山宿から植樹された松の木がありました。土山といえば、旅の3日目、鈴鹿峠を越える前に通った宿場町です。なつかし!!
この他にも多くの宿場町から送られた松の木が街道沿いに植えられており、ミニ松並木が再現されていました。全部自分の足で踏破してきた宿場町です。川崎宿の交流館に続いて、東海道は西からの旅人をとかく労ってくれますね。

急に高い建物が増えて震えました。富士山以来に「高!!」と思いました。

泉岳寺

忠臣蔵であまりにも有名な泉岳寺です。忠臣蔵は、無実の罪で主君・浅野内匠頭を切腹に追い込んだ吉良上野介を家臣47人が討つ話ですが、仇討ちのあと、家臣達は吉良の首を主君が眠るこの泉岳寺に供えたといいます。
赤穂といえば、関西住みの方ならJR東海道線の新快速の方面の表記でよく見る地名です。京都よりもはるか西の赤穂から、仇討ちのためにはるばる江戸までやって来た赤穂浪士の執念にも脱帽ですが、赤穂浪士について調べる中でもう一つ、目を疑う記述を見つけました。
というのも、浅野内匠頭切腹の主要因である「殿中殺傷事件」が、江戸から620キロ離れた赤穂に伝わったのは、事件発生の4日半後というのです。愛知の二川で「継飛脚は3日で江戸-京都間を移動できる」と聞きましたが、さらにプラス1日半で赤穂まで行けたそうです。
しかも、「馬は速度は速いが夜間走れないので、人間が昼夜問わず爆走した方が早く着く」という理由で、馬はあまり使われなかったというのですから驚きです。こちとら18日かけてようやく東京なんですが・・・。江戸時代にタイムスリップできるなら、飛脚や早駕籠の人たちがどんなフォーム、速度で爆走していたのか、切実に知りたいです。

東京タワーだ〜‼️‼️‼️

西郷南洲 勝海舟会見の地

西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城の話し合いをしたあたりです。石碑があるそうですが、工事中でした。

残り1里(約4キロ)!!!肝心の一里塚はない!!!!

銀座

社会の教科書とニュースの映像でしか見たことがなかった銀座に初めて来ました。
これまでずっと住宅街や石畳を歩いてきた旅のラストスパートが銀座の大都会なのは刺激が強すぎました。ズタボロのジャージで来るところじゃないのよ。


銀座を過ぎれば、あとはもう常識的な散歩くらいの距離です。あとすこし・・😭




着 い た‼️

日本橋

ギャーー!!
ギャーーー!!!


ゴールです!!!!!!!!

日本橋は東海道をはじめとする五街道の起点です。現代でも国道1号線をはじめとする主要道の起点は日本橋で、日本国道路元標があります。
おめでとうの風なのか、ただのビル風なのか、凄まじく風が吹いていました。祝ってくれているということにします。

ひとしきり写真を撮り、余韻に浸ったあと、そばの東京駅に駆け込み、駅弁を買って新幹線で京都に帰りました。椎茸がなかなか噛みきれず、ムニャムニャ噛んでいる間に、私が2日くらいかけて歩いた距離を通り過ぎていて震えました。この先も新幹線の速さを当たり前のものとして享受できない気がします。

旅を終えてからもう大分経ちましたが、仕事やプライベートで東京方面に赴く際は必ず窓側に座るようにして、ルートが東海道と重なる名古屋以降はずっと窓の外の景色を見ています。富士山と川以外のランドマークは特になく、歩いていなければ特に何の意味も持つことはなかったであろう景色ですが、今となっては旅のアルバムのように当時の記憶を鮮やかに呼び起こしてくれます。「弥次喜多さんやかいけつゾロリみたいな、旅先ではなく旅の過程に沢山思い出が詰まった旅をしたい!!」というのが東海道を歩くことになった動機だったのですが、これだけ新幹線の外の景色をずっと眺めていられるということは、当初憧れていた形の旅が出来たのだろうと思います。

月一更新だったので、気がつけば1年以上かかっていました。。。こんなぐだぐだな更新に付き合ってくださりありがとうございました。
記事を書くにあたって諸々調べ直したり、写真を整理したりと、一つ書き上げるだけでも中々手間がかかったほか、並行して他の街道を歩いたり、資格の勉強をしたり、試験が嫌すぎて吐き気と頭痛が止まらない哀れなOLになったりしていたので、そんな中で書き続けるのは、歩くとは別のしんどさがありました。なんとか終えられてホッとしています。せっかくここまで書いたので、直近noteサービス終了なんて事態にならないことを祈るばかりです。

この間に歩いた街道については、27日分と死ぬほどボリューミーなので、noteに書くかはまた考えます!

みんな、新幹線は速いぞ!!!そして日本は広いぞ!!!

寧々

【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ


神奈川
海は全然見えない!
川崎
橋ってすごいんだからね
品川
同じ場所なのか怪しすぎる
日本橋
日本は本当に広かったです
しばらくスマホのロック画面にしていました

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