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神奈川県ってなんで横浜県じゃないの?【歩いて目指せ日本橋17日目】

この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たかった人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅した18日間の記録です。
【ルール】

①東海道上に設けられた53の宿場町を通り、京都三条大橋から東京日本橋を徒歩で旅する。
②通行止めなど余程の理由がない限り、「東海道」以外の道を歩くことは禁止。道を間違えた場合は、間違えた地点まで戻って歩き直す。
③移動手段は基本徒歩。徒歩で渡れない三重〜愛知間の移動のみ電車OK。
④各宿場町では、歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」と同じ構図で写真を撮る。


【前回の記事】

おはようございます。神奈川県の茅ヶ崎駅からスタートです。今回は京都から小田原まで新幹線で移動した後、在来線で茅ヶ崎まできたのですが、駅の電光掲示板には東京方面の地名が並んでおり、ゴールの近さを実感しました。旅も残すところあと2日、今日も江戸を目指して歩いていきます。
まずは藤沢宿を目指します。

茅ヶ崎一里塚
東海道名物・松並木が所々ある


やたら1号線から外れて奥まった道を歩かせたがる静岡以西と違い、神奈川〜東京は大方1号線沿いを歩きます。1号線はすっかり現代化されていて、街道を歩いている気分になりにくいのですが、茅ヶ崎〜藤沢間では松並木が所々再現されていました。

おしゃれ地蔵

地蔵はブルベ寄り

自分の化粧品をお地蔵様の顔に塗って綺麗になれるようにお願いをするみたいです。どちらかといえば地蔵はブルベだと思いますが、そんなことお構いなしに色んなファンデが塗りたくられています。あいにくこのOLは荷物軽量化のために日焼け止めと眉毛以外のメイク用品を持ち歩いていないので、何も塗れませんでした。

藤沢宿(神奈川県藤沢市)

義経の首の洗い井戸

ついさっきまで「地蔵はブルベ」とかふざけていましたが、藤沢宿に入った途端に源義経の首を洗ったという井戸に鉢合わせたので背筋が伸びました。
鎌倉時代の歴史書・吾妻鏡には、義経は旧暦4/30に奥州平泉で自害した後、彼の首は6/13に鎌倉の腰越にて首実験が行われたとあります。
首実験後の義経の首の行方は明らかではないですが、腰越の浜に捨てられたものの、金色の亀によって藤沢まで運ばれたという言い伝えがあり、泥だらけだった義経の首はこの井戸で洗われ、供養されたそうです。

モンゴルでチンギスハンになったんじゃなかったんだ・・・。

少し街道から外れているので行かなかったのですが、義経を祀る白旗神社という神社もあるそうです。

義経の首が辿ったルートは多分こんな感じ


みつはし園

藤沢の町屋の典型形式(切妻造り、出桁造り)を今に伝える大正時代の建物です

遊行寺橋


先ほど義経の首マップでも江ノ島がありましたが、藤沢は江ノ島、鎌倉、大山などへ続く交通の要衝でした。
この橋の先に旅籠町があったらしく、当時大名行列も渡った橋が再現されています。

清浄光寺(遊行寺)


藤沢は時宗(楽しく踊って極楽気分がポリシー)の総本山・清浄光寺(遊行寺)の門前町でもありました。受験生の頃、時宗と開祖の一遍上人はすぐに覚えられたのに、清浄光寺だけ全く覚えられなかったことを思い出しました。

小栗判官墓所


遊行寺には小栗判官の墓があります。
小栗判官は、15世紀、常陸国(茨城県)の小栗という地域を治めていた大名です。時の将軍・足利持氏と対立し敗走した小栗判官は、三河へと逃げる途中に藤沢に立ち寄り、照手姫という女性と恋仲になるのですが、盗賊に毒を盛られてしまいます。この後の展開は伝承によって異なります。閻魔大王によって蘇生されたものの、餓鬼の姿になってしまった小栗判官は和歌山の熊野で湯治をして元の姿に戻り、盗賊に復讐を果たした、または毒殺「されかけ」たものの照手姫の助けによって逃げ出し、御家再興の後照手姫と結婚した・・などです。京都から歩いてきた身としては、湯治とはいえ藤沢から和歌山の熊野まで歩く気力が信じられません。。。

相模国・戸塚宿(神奈川県横浜市)

藤沢から7.8キロ、2時間くらい歩いて戸塚宿につきました!歌川広重が描いた戸塚の絵の中を箱根駅伝の選手が走り抜ける(戸塚は中継地点です)という、過去と今の戸塚の特徴を上手く取り入れた百点満点のマンホールがありました。

澤邊本陣跡


VIP用高級ホテルです。
東から東海道を歩く旅人間の言葉で「お江戸日本橋七つ立ち」という言葉があるのですが、これは東海道の東の起点・日本橋を七つ(午前4時)に出発することを指します。そんな彼らが初日に泊まるのが、日本橋から10里半(42キロ)の位置にある戸塚でした。初日からマラソン級の距離を踏破する江戸時代の旅人の気が知れませんが、思い返せば、京都から歩く場合も「京立ち、石部泊まり」と京都〜石部宿の36キロを歩くのがデフォルトだったので、石部の手前、草津で足を壊した令和のOLにはないスタミナと強靭な足を持っていたのでしょう・・・。

相模国・武蔵国の境

思えば遠くへ来たもんだ!!!

戸塚を出てこれまで、山城→近江→伊勢→尾張→三河→遠江→駿河→伊豆→相模と幾多の国を超えてきましたが、いよいよ最後の国・武蔵国に入りました!立派なモニュメントが建てられています。律令制の国境で感動する日が来るとは思いませんでした。
モニュメントの土台には五十三の宿場町がずらりと書かれています。思えば遠くへ来たもんだ・・・。

権太坂

権田坂

戸塚と保土ヶ谷間はとにかく坂が多かった印象です。戸塚が最初の宿泊地であったことには、戸塚にたどり着くまでに数々の難所(坂)があり、戸塚を出てからも坂があるので、一旦戸塚で休もうという理由もあったそうです。それでも難所込みで42キロ歩くスタミナは恐ろしいですが・・・。
中でも一番有名な坂はこの権太坂で、東からの旅人にとっては初めの難所でした。箱根駅伝でも権田坂は出てきますが、旧東海道とは微妙に場所が違います。
名前の由来は、旅人に「この坂の名前は?」と聞かれたおじいちゃんが、自分の名前を聞かれたと勘違いして「権太です」と言ったからだそうです。おじいちゃんの聞き間違いを坂の名前にすな。

都会が遠くに見えて来てテンション上がりました


武蔵国・保土ヶ谷宿(神奈川県横浜市)

江戸見附


東海道53次の中で唯一4文字の宿場町です。
先ほど「戸塚で泊まる人が多かった」と書きましたが、さすがに数々の坂を越えて42キロも歩ける人ばかりではなかったので、戸塚の10キロ手前の保土ヶ谷で泊まる人も多かったようです。保土ヶ谷で泊まるのは理解できるな・・と思わず声に出ました。

旅人のバイブル・東海道中膝栗毛でも、「戸塚まで行かずに保土ヶ谷で泊まりなよ〜」と客引きをする留女がいて、「おとまりはよい程谷(ほどがや)ととめ女、戸塚前ては(とっつかまえては)はなざりけり」とネタにされています。弥次喜多さんは基本言葉遊びが得意です。

結局弥次喜多さんは坂を越えて戸塚まで踏破しましたが、私だったら絶対留女の言うことを素直に聞いて戸塚で泊まっています。

写真からも分かる通り、ここら辺から雨が降り出して泣きそうでした。

洪福寺松原商店街
洪福寺松原商店街 
横浜のアメ横って呼ばれているらしいです
ランドマークタワーだ〜‼️‼️


武蔵国・神奈川宿(神奈川県横浜市)

神奈川台関門があった

神奈川県という県名は、ここ神奈川宿あたりの地名から取られています。宿場町の名前と県名が一致しているケースは、少なくとも東海道では神奈川だけです。
微妙にここからは見えませんが、神奈川といえば、1854年の日米和親条約で開港された神奈川湊です。先ほどの清浄光寺しかり、日本史の猛勉強に明け暮れた10代の頃の記憶が蘇ります。
締結にあたり、米国側は「カナガワとかいう港町あるやろ?それ開けろや」と言ってきましたが、江戸に繋がる東海道上にある神奈川を開け渡すことを幕府は良しとせず、「実は神奈川は神奈川湊だけではなく、神奈川湾の沿岸部全体のことをいいまして・・・」とごまかし、神奈川湊から離れた小さな漁村・横浜村を「神奈川」として諸外国に開け渡したそうです。当然「こんな小さい漁村が神奈川なわけあるか!!」と抗議はあったそうなのですが、横浜は神奈川であると言い張るために、わざわざ神奈川奉行所もここに起き、廃藩置県後も諸外国に配慮したのか「神奈川県」と名乗り続け、今に至っています。
今となっては「横浜市民は自分のことを神奈川県民と名乗らない」といいますが、元は横浜神奈川化計画があったのですね・・・。


元々江戸時代の人並みのスタミナがないことに加えて雨に降られたので、今日は神奈川で終わりです。雨が降っていなければ少し街中を散歩でもしようと思ったのですが、あいにくの雨なのでおとなしくホテルでやけ酒して寝ました。

次回はいよいよ最終日、日本橋まで歩きます!ようやく東京だ・・・泣 書くことがこんなに大変だと思わず、歩いていた当時と同じ苦痛を感じておりますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです🙏


寧々

待ってろ東京!


【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ


藤沢
戸塚
保土ヶ谷
ここらへんの宿場町にはやたらと橋が描かれています

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