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「わたしの作品は、わたし自身です」(無価値観の時代から、自分が価値になる時代へ。の話。)

日ごろ素敵な活動をされているno友さんたちと、最近立て続けにこんな話で盛り上がり(?)ました。↓

「いかにも男性社会的なマーケティングとか戦略的なものって、自分たちとはちょっと合わないよね、そもそものバイブレーションが違うっていうか(要約)」


わたしのnoteと関わりを持ってくださっているかたの中には、こんな思いをなんとなく漠然とお持ちのかたが他にもいらっしゃるんじゃないかなと思いましたので、今日はこのことについて書いていこうと思います。


この「戦略だとかテクニックへの違和感」ってなんなのかなっていうことを掘り下げていったときに、ひとつ思ったことがあります。


これまでの経済の仕組みを考えたときに、その根底に流れているものって「そのままのあなたには価値がないですよ」っていう意識だと思ったんです。

自分も人も、そのままでは価値がないから、よくなるために何かを足さなければいけないという 〝 欠乏感 〟がエンジンになっている。


少し極端な表現ですが、

何かをプラスしたら幸せになれますよ ≒

「何かを足さないとヒドいことになりますよ」、「みんなと同じように経済活動(稼ぐ・結婚・子育て・家建てる・車買う・保険入るなど)に参加しないとおいていかれますよ」っていう、

恐怖だとか焦燥感、そして劣等感を、知らず知らずのうちにわたしたちはこの経済のシステムから受け取っているんですね。


だから「お金があるのに満たされない」「色々持っているのに足りない気がする、不安」「お金ないから死にたい」「何かを持っていないことは不幸という思い込みでメンタル潰れる」「お金を払いさえすれば横柄な態度を取っていいと勘違いする」なんてことが起こってくる。

本来わたしたちを幸せにするための経済活動のはずなのに、これでは悲劇です。


でもわたしたちみたいな人は、そのままの命がすでに素晴らしすぎることを無意識レベルで知ってしまっている。

だから、このフィールド(無価値感ベースの世界観)で「勝つ」ための戦略だとかマーケティングの手法とは波長が合うわけがないんです。

(すべてとはいいません。程度問題。)


「自分には力がない」という無価値感がその人の根底にある場合、クライアントや関わる相手にも無意識的に同じような非言語メッセージを渡していることになります。


だから、「そのままの自分で素晴らしい」と知っているわたしたちからすると、その人が発するものが過度な忖度に見えたり逆に搾取とか押しつけに思えたり、

無価値観がベースになっている世界観の中で正しいとされていることにたいして「姑息だな」と感じたりする。


(例:お金・評価・目先の利益のために自分のやりたくないことをする、他人受けのために自分がときめきもしないサービス・コンテンツをつくる、自分のやりたいことをまず「お金になりそうかどうか」でジャッジする、人の恐怖・孤独・劣等感・良心を利用して利益を得ようとする←奴隷じゃん)


結局「やりたいことをやるんだ」って思って活動を立ち上げても、無価値感ベースの世界観のまま忖度しながら活動するんだったら本末転倒というか、それってやりたくもない労働をするのと何も変わらないよなあって。


まあ、無価値感ベースの小さい枠に自分を収めようとするとするわけだから、そりゃあ窮屈になっちゃうワケですよね。

本来そんな小さいところに収まるようなエネルギーじゃないはずだから。


こんなわたしらみたいなのが活動する際にやらなきゃいけないのは、外側を向いたマーケティングじゃなくて、自分の需要をどこまでもリサーチし叶えていく『内面世界の自分マーケティング』。

マーケットは自分の内側にあるんよね。


だからって外側優位でやってる方々を否定するわけではなくて、わたしたちにはわたしたちの広がりかたがあるよねってだけの話。

だってエネルギーが大きいんだから、枠にはまれなくてもしかたない。これはもう、しかたないんすよね。


無価値感ベースの世界では、発信をする本人よりも商品やコンテンツ、スポンサー、受け手側のほうに力がある。

パワーバランスではサービス提供者が一番下。

だから提供者本人は色んな方面に忖度しながら、自分のもともと持っている価値 “以外” の部分で頑張り続けなきゃいけない。

力のある何かに広めてもらわないといけない。他人の作ったマニュアルに則って戦略を練らなければいけない。という発想になる。


でも、もうがんばって媚びたり恐怖を利用して集客する時代って終了していて、わたしたちがしなきゃいけないのは「素敵な人たちが向こうから集まってきてしまう光に自分がなる」という一点のみなんですよね。

「光になる」なんて言うと難しいことのように感じますが、要は「命本来の価値を思い出す」というだけです。

思い出したら、自分という存在が「広告」になる。なってしまう。


わたしのメンターとも言える女性が「御神体は媚びません」という名言を残していたのだけど、全くもってこの一言に尽きるなと。

(「媚びない」というのは、傍若無人に振る舞うこととは全く違います)


目先の評価のために、人に受け入れられるために自分のエネルギーを漏らしちゃいけない。自分に嘘ついちゃいけない。

自分の感情を低く見積もっちゃいけない。

だってそれは命の無駄遣いだから。


「わたしの作品はわたし自身です」

といえるようになったときに、そこに愛と知恵と、そして豊かさが集まってくる。


これがわたくしの考える、女性性時代の(信用経済下の)わたしたちのような人類の生存戦略。

生存戦略っていうか、幸せな自分活動の営みかた・暮らしかたの指針。


無価値感の時代から、自分が価値になる時代へ。


そこに広がる世界の通貨は、「お金」だけではなくなっているのだろうね。


ご清聴、どうもありがとうございました。


***


今日の話に関連して、ブレそうになったら戻ってくる場所的なだいすきな一冊。

ビジネス書だけど、「ビジネスで成功するための本ではありません」(本編より)。沖縄でひとり海見ながら読んでめちゃくちゃに泣いたのは良い思い出。


関係ないけど、あたたかくなったため心がもう夏の国に行って帰ってこれないぃ。気持ちはもう海にいるよよよ。。これだから5月は好きなんだよな。うみうみうみうみ。

夏になったらビーチでサンセット見ながら三線の花を歌うのだ。えも。

わたしさん、忘れられない夏になるといいね。



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自分の作品を見てもらいたいけど、人の心に踏み込むような営業活動には苦手意識がある。数字を追うのが得意じゃない。 そんな私「だから」書ける…

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