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獲得と喪失、どちらも光であり影

先日、DID(解離性同一性障害)の当事者の方と話をした。話をしたといってもわたしにとっての個人的な時間であり、特にDIDについて話題にする時間として設けたわけではなかった。
その人(当事者)は自身がDIDであるということを公にしていて、さまざまな場所でそれにまつわる活動をしている。そういうわけで、その人がこれまでにした話や執筆した書物などから、少しではあるもののわたしもその人について知っていることがあるのだった。

かねてよりわたしはその人に尋ねたいことがあった。
その人は、DIDを発症してから複数の大学院を卒業している。平たく言ってしまえばとても学歴が高い。わたしはそれに対して個人的なコンプレックスを持つとともに、「DIDという困難な人生の中で、どうしてそんなに学問に集中できたのだろう?」という疑問を持っていた。

この疑問に対して、かつてその人が書いた文章に答えとなるようなことが書いてあったのを見たことがあった。要約すると次のような内容である。
「ある調査によると、DIDの当事者の二割くらいの人が大学院を卒業しているといわれている。どうしてこのように多くの当事者が大学院に行くかというと、高学歴であれば就職などの機会で『まとも』だと見せかけることができるから」
これを読んだとき、なるほど、とは思った。例えば就職活動をするとき、DIDである自身の状況をありのままに伝えて(「わたしには何人か人格がいて、知らないうちに入れ替わりますが気にしないでください」など)、受け入れてくれる会社は少ないかもしれない。社会の中で「ふつう」に暮らしていくために、高い学歴を所持していることはあらゆる欠点のカバーに役立つ(DIDであることが欠点だという意味ではない)。一般的に、高学歴であることはわかりやすく便利だ。

でも、と思った。DIDになっているということは、多くの場合は、抱えきれないほどの大きなダメージが与えられた結果のできごと。ダメージを与えられながら、その後もそれにまつわる後遺症のようなものに苛まれながら、どうしてそんなに学問に集中できたのだろう? 人より長く学校へ通うなら、アルバイトなどで学費も工面しなければならなかったかもしれない。体力や精神力が相当に必要に見える。
この疑問は、わたし自身が高校生の頃に途中から学校へ行けなくなったことに由来する。勉強が嫌いだったわけではないのに、クラスや部活で友達はいたのに、みんなと同じように大学へ行きたかったのに、わたしは学校へ行けなくなった。学校へ行けなくなったというか、何もできなくなった気がする。記憶が断片的だ。少なくとも、ダメージを受けながらふつうの人と同じように生活するのは、わたしにとってとても困難なことだった。

「どうしていくつもの大学院を卒業できたんですか? どうやって勉強が続けられたんですか?」
わたしはありのままの疑問をぶつけた。わたしに予想される答えがあったとすると、「もともと勉強は好きだったから」とか「勉強している間は逃避できたから」とか、だろうか?
その人から返ってきた答えはこうだった。
「わたしが院に行ったんじゃない」
カーンと頭を打たれた感じがして、でも、そうか、という感じもした。すぐに、とても複雑な気持ちになった。そしてその気持ちを隠せず、わたしは正直に「複雑な気持ちになりました」と漏らしてしまった。

「複雑な気持ちにさせてごめんね」
わたしの表情を見たのか、その人はわたしにそう言った。違う、やめて、そんなこと言わないで、と思った。わたしは感情をできるだけ抑えて「謝らないでください。わたしが勝手に複雑な気持ちになっただけなので」と伝えた。それももちろん正直な気持ちだった。

こんなことを思ってはいけない、と思いながら、わたしはその人のことをうらやましく思った。いいな、そうやってその人の中には「頑張れる人」がいて。「頑張れる人」は生みだそうとして作った都合のよい人格ではないし、「はい、じゃあいまからはあなたがやってね」と器用に使い分けられるわけではない(と思う)。そもそも「頑張れる人」が生み出されたその人の過去を思うと、つらく悲しくなる。その人は「頑張れる人」がいなくても十分に、いやもっと勉強ができたかもしれない。あるいは、大学院に行けなくてもいいから、あんなひどい経験はしたくなかったと思うこともあるかもしれない。わからない、これらは推測だ。

考え方を変えてみる。
その人にとって、大学院卒という学歴の獲得は、「一人の人格を維持して生きること」を喪失した裏側にある、とも考えられるかもしれない。
あるいは、その人にとっての獲得はもっと高度なところにあって、院卒を「喪失」と捉えているかもしれない。そのように捉えた場合、DIDになったことも院卒の学歴もどちらも「喪失」になる。
逆に、院卒を「獲得」と捉え、それはDIDになり「頑張れる人」を生みだした結果だと捉えれば、DIDになったことも「獲得」と捉えられるかもしれない。
捉え方によって、どちらも「獲得」であり「喪失」になりうる。例えば、結婚することは「既婚者という立場の獲得」であると同時に「独身という立場の喪失」であるように。結婚することについて肯定的であれば結婚は獲得だと捉えやすく、否定的であれば喪失だと捉えやすいかもしれない。注目できる点は、いつもどちらもあるのだろう。

わたしが今回複雑な気持ちになって大きくこころが揺れたのは、もともとのわたしの喪失感を刺激されたからだと思う。ふだん、「みんなと同じように大学には行けなかったけど、いまのわたしはちゃんと仕事しているから大丈夫」と言い聞かせて自分を守っているけれど、やっぱり根底には「わたしはできなかった」という思いが強いのだろうな。だから、「こんなに大変な思いをしてきた人なのに、あれもこれもできるの? 比べてわたしは…」と悲しくなってしまったのかもしれない。けれど、その人の状況をよくよく鑑みると、手放しで「いいな、すごいな、うらやましい」と言ってもいけない気がして、左脳があわててわたしにストップをかける。それでもなお、右脳から憧憬、羨望、嫉妬がにじみ出る。左脳はふたたび「そんな汚いこと思ったらだめ!」と否定する。

この穴ぼこはどうやって埋めたらいいのだろう。
わたしが「喪失」だと強く思っていることの裏側にあるかもしれない「獲得」とは何なのだろう。学校に行けなくなったことの裏側にあるかもしれないものって、なんだ?


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