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谷崎潤一郎『文章読本』

文を書き始めようとする時は、いつも少し怖い。まだかたちを取らない頭の奥にしまってあるものに、正しくふさわしいからだを与えることができるのだろうか。うっかり取りこぼしてしまったら最後、それはもう二度と戻ってこない気がする。さっきまで漠然とわたしだったものとの、永久的な別れ。言葉を紡ぐたびに、わたしの一部が死んでいく。

でも、言葉に導かれて生まれるこころもあるだろう。不意に浮かんできた言葉の並びにハッとさせられることがある。考えて考えてもその一瞬のひらめきに敵わないことは多い。しかしそれは文を書く者としてあるべき姿ではないと思っていた。そういう思いつきはただの運であって、実力とは呼べず再現性もないのだと。

長年わだかまっていた想いを照らし出し、全くそれでよいのだと教えてくれた本がある。谷崎潤一郎の『文章読本』だ。

小説家が小説を書く場合に、偶然使った一つの言葉から、最初に考えていたプランとは違った風に物語の筋が歪曲して行く、と云うような事態すら生ずるのでありまして、もっと本当のことを申しますなら、多くの作家は、初めからそうはっきりしたプランを持っているのではなく、書いているうちに、その使用した言葉や文字や語調を機縁として、作中の性格や、事象や、景物が、自然と形態を備えて来、やがて渾然たる物語の世界が成り立つようになるのであります。(中略)言葉が一つ一つがそれ自身生き物であり、人間が言葉を使うと同時に、言葉も人間を使うことがあるのであります。

pp.106-107 / 谷崎潤一郎『文章読本』中央公論新社 , 2014年

※私は内容を簡潔にまとめることがどうしても苦手なので、関係する部分のみ引用するにとどめるが、もちろん本書の魅力は他にも無数にある。

この箇所を読んで、思わず「そうか!」と声が出た。文章を書く最中のひらめきを否定する自分と、信じている自分。そのどちらもが一瞬にして居場所を与えられ、安らいでいくのを感じた。正しい、正しくないではなく、言葉とは元々そういうものなのだ。

文章を書くことは、変幻自在に荒れ狂う言葉という波の中を、感性の羅針盤を頼りに進んでいく、その軌跡のことなのかもしれない。大海原へと乗り出して行く覚悟はあるのか。あったとして、その羅針盤は澄んでいるか。今一度自分に問わなければならない、そう思った。