何者でもない自分を認める為に

ある時から、自分は天才でも特別でも無い事に気付きました。

「自分は何者かになれる」と信じて生きていた20代、
多くの失敗をしながら生きてきて、ある日気付いてしまった。
「自分はそっち側の人間ではない」という事に。

あー、自分って数多くいる凡人の中の一人なんだなぁ
と悲しく感じてしまいました。

それを感じたのは、残念ながら病院の閉鎖病棟で、
絶望の淵に立たされている時でした。

自分が生きているのか、死んでいるのか、
生かされているのか、死んでいるように生きているのか、
そんな時でした。

子どもの頃から優等生に育ってきて、
それなりの大学、それなりの就職先を選んできたのに、
大の大人が、食事も運動も行動全てコントロールされ、
人か動物か、幼児か子どもか分からない扱いを受けながら、
とりあえずで生きている自分を見て、
自分自身を認めざるを得なくなりました。

俺ってなんなんだ?何者なんだ?どこにいくんだ?
自分という存在、アイデンティティが崩壊した瞬間でした。

結局、その時自分は天才とは程遠い位置にいて、
這い上がる事しか考えておりませんでした。

過去記事でも書かせていただいている通り、
まずは毎日一定時間歩けるようになる所から、
一定時間の読書、アルバイト、契約社員を経て、
今は正社員としてある小売・流通の会社で勤めております。

もしかすると、同じ状況になってしまった時、
折れてしまう人もいるかもしれません。
寧ろ、そのような人の方が多いかもしれません。

ただ、自分は諦めたくなかったんです。

例え、自分に物理的にも精神的にも欠けてしまっても、
「諦める」自分を認める事だけは絶対にしたくなかったのです。

それは、私が結婚するとほぼ同時に亡くなった
母の為でもあり、自分の為でもあります。

世の中に生を受けたからには、何かを残したい。

今まで世の中に無いものを会社の力を借りようと、
何だろうと実現させるのが自分の生き甲斐だと決めました。

結果的に、私は道半ばです。
最近は世の中に無かった素材を実験的に試したりしています。
結果的に、それがものすごいやりがいであり、楽しみです。

結果的に、私が何者かになれるかも分かりません。
そもそも、何者って何かすら分かりません。

ただ、自分に正直に欲しいものを手に入れようと、
がむしゃらになっているだけかもしれません。

それで良いのです。

理想を叶えられるだけが全てでも無いですし、
今、私は理想より幸せな生活を味わえているかもしれません。

それは、病棟での絶望を味わなければ、
手に入れられなかったものかもしれません。

もしかすると、本来得るべきものを、
誰かが病気を通じて教えてくれたのかもしれないですね。

人生色んな事があります。
負ける時や逃げる時があってもいいです。
ただ、今この時この瞬間幸せであって欲しいなと思います。

それが、自分を認めるってことかもしれないですね。

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