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なぜ人は怒る(怒らない)のか

怒る人と怒らない人の本質的な差について考える。

以下本文。


◾️ 怒る人と怒らない人の差

世の中にはびっくりするほど怒らない人というのが存在する。また、反対に日常生活単位で些細なことで怒っている人も存在する。

これらの違いについてしばしば考えるのだが、結論から言ってこの両者の違いは受け止め方にあると思っている。これを心の許容範囲と言うか論理的な妥協範囲と言うかは別として。

自分は所謂「怒らない人」である。なので、「怒る人」について言うならば彼らはバイアス(物の見方に関する心理的な偏見)が強い、視野が狭い、考え方が頑固だと言える。もっと悪く言えば幼稚とも。

要は「怒る人」も「怒らない人」も見えている事実は同じなのだが。
物の見え方というものに当人が感じた「こうあるべき」フィルターがかかったり、あるいは事実そのものしか見えてなくて周りの人間の顔が見えてないとか、はたまた今後起こるだろう未来の可能性の予想できる数があまりにも少ないとか。
そういうのが複合的にうまいこと重なって変な方向に行くと結果的に怒りの感情が生まれる。

ここで大事なのは「事実」そのものは変わらないということであり、怒る人は無意識にそういう工程で結果的に怒りを優先しているだけであるだろうし、怒らない人はそういうものが無いかあるいはそういうものを認識して意識的に、あるいは無意識的に避けているだけだろう。

◾️ ストレスは怒りに直結しているのか

結論から書こう。基本的にストレスは怒りに直結しない

なぜなら、怒りというのは「強引な解決手段」でしか無いからだ。そもそも意味もなく怒る人がどこにいるのだろうか?
尚、その怒りそのものが問題を解決できるかは別として。

第一、ストレスが原因で人が怒るのだとしたら、極端な例になるが極寒の中外に出た人が世界中でキレまくってるということになる。一部はもしかしたらそうであるかもしれないが、全人類規模で言えばそんなわけはないだろう。

では、怒りにとってストレスとはどういう位置付けになるのか。
これは簡単な話だ。怒りにとってストレスは「理由」でしかなく、怒るために存在しているのがストレスなのである。

と難しいことを言ったが。ストレスは怒りに利用される立場にある。
怒る人というのは、怒るという目的のために受けたストレスを利用&理由にして他人に怒る。しかし、怒らない人はストレスが怒るための理由にはならないから利用しない。

なので、ストレスそのものは怒りとは本来何ら無関係な存在なのである。
だから自分が受けたストレスを理由に怒る人ほど、信用できないものはないと思う。

◾️ ストレスはどこからくるのか

怒るためのストレスなんて探そうと思えば星の数ほどある。
が、怒らない人はそのほとんどのストレスを認識していないだろう。対して怒る人はより多くのストレスが見えているのかもしれないが。

ストレスには大きく分けて2種類存在する。
1つ目は外部的なストレス。暑いとか寒いとか、怪我をして痛いとか、人から嫌なことをされたとか悪口を言われたとか。環境的なものや人間関係に起因する事実に基づいたストレスは全てこれに分類される。

外部的なストレスというのははっきり言って自分の手でどうにかできるものではない。なので、解決策としては諦めるしかない
そもそも人が人を変えることはできないのだから。怪我をしたら痛み止めを飲むとか言っても、血が出ている事実は変わらないし受けた傷はすぐには治らないわけだからどうしようもないのである。ちなみに、心の傷もね。

外部的なストレスについては自分の手ではどうしようもないから諦めて、忘れるか受けた傷が癒えるのを待つしかない。他人と自分の考え方が全て同じとは限らないのだから。

2つ目は内部的なストレス。正直厄介なのはこっちの方だ。
ちなみに、怒る人というのはこっちの処理にめっぽう弱かったりすることが多い。

では内部的なストレスとは何か。
例えば、嫌味を言われたからその人を許せないと感じてモヤモヤするとか、もしかして言い過ぎてしまったから嫌われたんじゃないかとか。自分は周りと比べてアレコレできてないから無能なんじゃないかとか。

要は、自分の目で見た事実に対して感じたどうこうに起因するものが内部的なストレスである。
だが、外部的なストレスと違うのは内部的なストレスそのものがその人次第でなんとかなってしまうところにある。

先述したが、怒る人というのは怒らない人と比較してこの内部的なストレスに触れている時間がものすごく長い。長すぎて精神を病んでいることもあるんじゃないかというレベル。
ひどい人になると、無意識下でこの内部的なストレスが24時間フル稼働しているなんてことになる。

だが、内部的なストレスに関しては正直やめようと思えばいつでもやめられるのである。
それには直接自分の中の内部的なストレスを認識するとか、意識的に内部的なストレスから目を背けて趣味に没頭してみるとか。対処法なんて挙げればキリがないのである。

だから適度にストレス発散をしましょう、という話になる。無論、ストレス発散の効果的な種類と効力なんて人によって違うので一概に何が良いとは言わないが。

◾️ アンガーマネジメントに実用性はあるのか

世間にはアンガーマネジメント(怒りのコントロール方法)を名乗る書物が存在している。
ただ聞いただけの話によれば「かなり売れたらしい」が。自分からすればあれを買って読むことほど金と時間の無駄なものはないと思っている。

そもそも、あれを読んで実際に怒りを完璧にコントロールできるようになった人がどれほどいるのだろうか。
考え方は素晴らしいかもしれないが、この情報が無料で溢れかえった時代で有用そうに見せて売っている時点で胡散臭さは満載である。

結論から言ってアンガーマネジメントに実用性はない
なぜなら、すべての人がほんの少しずつ違っている前提があって、あれを読んだすべての人を同一の方法で怒りを完璧に制御できる地点にまで達させることはできないからだ。現実的にね。

実際アンガーマネジメントについて触れた人が友人にいたが。
その人は事あるごとにどうでもいい事で不満を垂れたり怒って違うものに八つ当たりしていたりしたので、ぶっちゃけアンガーマネジメントそのものに実用性はないと思っている。

そもそもの話、自分の頭で解決できないから自分が持たない情報や知識を頼るんだろうが。
大事なのは自分が受けた情報を自分の中でどう処理するかであって、情報を活かしきれていない時点で何も学んでいないのと同じだったりする。

◾️ まとめ

だからと言ったら難だが、基本的に他人の「怒り」そのものはある程度は気にした方がいいだろうが、同様にある程度は気にしなくていいと思っている。

そもそも怒りの感情はかなり個人的なものであって、怒っている本人が考えている価値観の中の「こうあるべき」に沿って外部に垂れ流されているものに過ぎない。
無論、それが多数派的に正しいこともあるかもしれないが。多数派だって間違えている事実も世の中にわんさかある以上、必ずしも多数派の意見が正しいとは限らない。

何より厄介な話、社会的に、あるいは俗説的に正しいとされていることを盲信して怒ってくるタイプの人が一番ヤバかったりするのだが。
そういう人は大体主体性がないか、本当はありのままの自分像が自分の中にあるのに嫌われたくないから押し殺して周りに何となく同調している人であるケースが多かったりする。

それに、「怒り」そのものは個人的な正義感と密接に繋がりがあることも多い。少なくとも、怒りに任せて自分の正義を貫き通す人より、自分の正義が社会とどれだけ合致しているのか疑っている人の方が健全だとは思うが。

怒りを制御できない人を人は一番毛嫌いするものだ。
表立って嫌いだと言われるならまだ良い方かもしれないが、黙って周りから人がいなくなるか、分かっていながらおだてて利用しようとする人がいる方がかえって恐ろしかったりする。

それでも、「怒り」そのものが問題解決に結びつくことも事実として否定はしないが。周りとうまくやっていきたいなら「怒り」に頼らないで、ある意味のうのうと笑って「こんなのどうってことない」と言える人の方が余程信頼されるんじゃないかと思っている。

数なくとも、自分はそういう人であり続けたいし、怒るためのエネルギーをもっと楽しいことに使った方が人生が充実すると思う。
だから、怒ることほど無駄なものはないと常々考えたりはしている。

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