私がうどん職人になったわけ

 たしかに子供の頃からうどんが好きでした。だけどうどん職人になったのはそれが理由ではありません。うどんが好きなら食べるだけで十分だし、好きっていっても別にうどんしか食べないわけじゃありませんからね。麺ものだったら蕎麦でもラーメンでもなんでも食べます。そんな私がどうしてうどん職人になったかと言いますと、やっぱりあの人のうどんを食べたのがきっかけです。

 当時の私は非常にヤンチャな学生で毎日夜が明けるまで遊び回っていました。まぁ、クラブですか?音楽が大きな音でかかっているところと、女の子がたくさんいるところとかですね。音楽が大きな音でかかっている方でナンパに失敗した時はいつも女の子のたくさんいる方でウサをはらしたりしてました。あの日も私は閉店までクラブで遊び、そして叩き出されるように店から出されました。それから私は始発までの時間を潰すために夜明け前の街をブラブラしてたんです。そうしてブラブラしてると小腹も空いてきたので何か間食でも食べようとコンビニを探したんですがあたりには見当たりません。だからといってこんな酔った体でコンビニを探す気力もありません。ああどうしようなぁと悩んでいた時ふと辺りを見回したら近くのうどん屋にポツンと灯りがついているじゃないですか。私はもしかしたら開いてるのか?いやまだ開いてなくても戸を叩いて無理矢理頼み込んでうどん食わせてもらおうと思ってうどん屋の戸に手をかけて開きました。

 戸は唖然とするほどあっさり開きました。まさかホントに開いてるのかと私がガラにもなく尻込みしていますと、中から「寒いから早く中に入ってくんな」と渋みのある老人の声が聞こえてきましたので私は言われた通り中に入りました。店はいかにも昔ながらのうどん屋といった感じで、カウンターの奥にはこれまた年季の入ったうどん職人といった感じの店の主人らしき老人がいます。私は店の雰囲気を見ているうちに急に自分の着ているチャラチャラした服が恥ずかしくなりました。

「お店開いてるんですか?」

 店に入れてもらってからこんな事を尋ねるのは間抜けだと自分でも思いましたが、この時の私は店の雰囲気に呑まれて動揺して思わず聞いてしまったのです。すると主人は私の顔をじっと見て言いました。

「ウチは朝いつも早いんでね」

 あの時私は主人の言葉とその澄んだ眼差しに自分のだらしなさをあからさまに見透かされたような気がしたのを覚えています。すると主人は壁のお品書きを指差して注文の催促をしてきました。私はハッと自分がうどんを食べにきた事を思い出してかけうどんを注文しました。主人はあいよと返事をしてかけうどんを作り始めました。まぁかけうどん一杯程度だったらこんな酔った体でも全然平気だろう。これが二郎系のラーメンだったら地獄だが、と私はうどんを待っている間こんなたわいもない事を考えていましたが、主人が「うどん一丁上がり!」と言ってどんぶりの入った盆を差し出してきたので慌てて受け取りました。そしていざ箸を手に取ってかけうどんを食べようとした時です。私はどんぶりの中にとんでもないものを見たのです。麺を覆い尽くす大量の天かす。その天かすの上に乗った生姜の塊。そして天かすに五回ほど回して注いだ醤油の跡。私はこのかけうどんとあまりに違うグロテスクなうどんの化け物に吐き気を覚え思わず盆ごと持ち上げて主人にかけうどんに変えてもらうように言いました。しかしです。主人は動かずに私の顔を見て言ったのです。

「お客さんはかけうどんを注文しただろ?これがうちのかけうどんなんだ」

「こんなかけうどんがあるのかよ!見てわかると思うけど俺酔ってるんだぞ!酔った人間にこんな体に悪そうなもの出されたら間違いなく吐くだろうが!」

 しかし私がこう言っても主人はうどんを変えずその澄んだ目を光らせて私にこう言いました。

「このかけうどんのどこが体に悪いんだい?かけうどんよりも今のアンタの方がよっぽど体に悪そうだと思うがね。アンタ多分毎日毎日そうやって朝まで飲み歩いているんだろう。だけどそのツケは近いうちにまとめて来る。昔のオイラがそうだったみてえに。まぁとにかくかけうどん食いな。このかけうどんは酔い覚ましには結構いいんだぜ。一見油まみれて気持ち悪そうに見える天かすもむしろ潤滑油みたいになって喉元を潤わせるんだ。生姜は味にさっぱりした風味を与えて、醤油はうどん全体をスッキリした味にするんだ。さあ食べなよ。早くしないとうどんが冷めちまうぜ」

 私は主人の説教を聞いてなにクソと思いました。偉そうに説教を垂れようがこんな天かすまみれのうどんがうまいわけがない。まずかったら主人の頭にどんぶりをぶっかけてやる。そう思った私は怒り気味に再び席に座り直すと箸を天かすの中にぶち込んで麺を引っ張り出してやりました。麺にはふやけた天かすがこびりついています。そこで私は箸を止めて考えました。うどんがあんまり不味くて吐いたらどうしよう。こんな天かすまみれのうどんを食ったら嘔吐感が胃の中のものを全て引っ張り出して来そうだ。しかしそれもこれも全てこのジジイが悪いのだ。私はそう決意して箸に挟んだうどんを一気に口のなかに入れました。

 口の中でうどんを噛んだ瞬間です。私は一瞬食べ物を間違えたかと思いました。これがあねかけうどんなのか。天かすがまとわりついた麺は店主の言う通りまさに潤滑油でした。油が麺の味を輝かせているのです。次に来たのは生姜でした。生姜はかけうどんの汁に海の塩のような刺激をもたらしてくれたのです。そして最後に私を待っていたのは醤油でした。醤油は麺と汁の味をキリッと締めているのです。私は自分がすでに箸で次の麺を掴んでいることに気づいてハッとしました。だけどもう止まりません。口の中は涎で溢れてこの天かすと生姜と醤油のうどんを求めているのです。こうして食べていたらもう酔いなんてとっくに治まっていました。麺についた天かすという潤滑油。海の塩のように心地よい刺激を与えてくれる生姜。そしてその麺と汁の味を締める醤油。たしかに店主のいう通り一口食べるごとに頭がスッキリしてきました。そのスッキリした頭で私は今までの人生を考えました。自分はただ目標もなくただ自堕落に親から与えられた道を歩んでいた。大学に行っていい会社に入って結婚をしてそして子供たちに囲まれて幸せな老後を過ごす。それでいいのだろうか。一度たりとも人生について考えてこなかった私が突然自分の人生に対して疑問を抱き始めたのは明らかにこのうどんを食べたからです。うどんは私の酔いを覚ますどころか、自分が無意識に考える事を避けていた人生への疑問まで呼び起こしてしまったのです。麺を啜るごとに今の自堕落な自分に対する羞恥の感情が強くなって来ました。こんなチャラチャラした服なんか着てお前は一体毎日なにを考えて生きて来たんだ。そうやって私はうどんを食べながら自分を責め続けとうとうその場で泣いてしまいました。

 すると店主が泣いている私の前に白いハンカチを差し出してくれたのです。店主は無言のまま口は開かずとも目で語っていました。いや彼は言葉ではなくてうどんで語っていたのです。なぜ私は天かす生姜醤油入りのうどんを食べただけで泣いてしまったのでしょうか。そしてなぜ天かす生姜醤油入りうどんがこんなにも美味しかったのでしょうか。多分蕎麦でこんな事をやられたらまずいだけでしょう。ラーメンに至っては論外です。これはやはりうどんにだけ与えられた奇跡の盛り付けなのです。私は食べ終わるなり店主に弟子にしてくれと土下座しました。

 それから私は親の反対を押しきってうどん屋に弟子入りして修行後この店を持つことができました。今は亡き師匠から引き継いだ天かす生姜醤油全部入りうどんは当店の一番の人気メニューです。


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