見出し画像

フォルテシモ&ロマンティック協奏曲 中編

前編へ


枯れ木のように朽ち果てて

 今、我らがフォルテシモ指揮者大振拓人は成田空港で大勢のスタッフやマスコミと共に、アメリカから来日する自称ロマンティックヴィルトゥオーソのバカピアニスト諸般リストを待っていた。このいつもながらの燕尾服を身に纏った大振の、腕を組み手に持っている指揮棒をピンと立てた堂々たる待ち姿を見た者たちは、誰もが彼こそ外務大臣に相応しいと思ったであろう。実際かなり以前からSNS等で大振を外務大臣に推す声も出ていた、ある保守系の政治評論家など大振を白洲次郎なんぞより遥かに偉大だと言っている程である。全くその通りだと私も思う。日々そのフォルテシモな指揮で世界の演奏家たちを圧倒し、大絶賛を受ける大振は、真偽の怪しいエピソードばかりが持て囃される白洲などよりも、よほど実績がある。彼が外務大臣になれば、その大胆なフォルテシモ外交でアメリカ人など一瞬で黙らせてしまうだろう。

 だが大振には外務大臣になることより遥かに大事な事があった。それはもうすぐやってくるであろう憎っくきバカピアニスト諸般リストをコンサートでフォルテシモにとっちめてやることだ。諸般リストはクラシックの人気ピアニストであり、大振にとっては不倶戴天の敵同士である。奴を涙さえ出ぬほどにフォルテシモでとっちめてやる。大振は改めて決意しその全身に力を込め、握っていた指揮棒を親指で強く押し込んだ。

 その不倶戴天の敵、諸般リストはいつまで経っても来なかった。到着時刻はとっくに過ぎているが、諸般が連れているであろうスタッフらしき影さえなかった。日本側のスタッフやマスコミがまさかバックれたのではないかと冗談を言い出したが、大振はすぐさま彼らに「くだらぬ事は言うな!」と一喝して黙らせた。大振は諸般が自分から逃げる男ではないと信じていた。バカメリカンの奴とてクラシックピアニストの端くれ。俺との勝負から逃げるはずなどない。大振はひたすら諸般リストを待った。

 そうして大振たちは諸般の到着を待ち続けたが、その大振たちの近くが急に騒がしくなった。どうやら出口付近で乱闘騒ぎがあったらしい。警官が一斉に現場に駆けつけているのが見えた。それで気になってよく見ると白人のデブの大男がやたらめったら拳を振り回していた。他の野次馬たちは突進してくるデブから一斉に逃げた。その人がいなくなった場所には、2メートルぐらいの長さの枯れ木みたいなものが転がっていた。

 警官は数人で「ファック!」と何度もがなるデブを後ろから取り押さえ羽交締めにしてどこかに連れて行った。デブがいなくなると皆の注目は床に転がっている枯れ木に集まった。大振もまたその枯れ木を、何故こんな見窄らしい枯れ木が転がっているのか、と注意深く見ていたが、しばらくして突然枯れ木の正体に気づき、思いっきり目を剥いた。それはなんと枯れ木ではなく人間であった。しかもその人間は、あの諸般リストだったのである。

 しかしあのロマンティックに髪を靡かせていた諸般リストが、何故こんな枯れ木みたいに見窄らしくなったのか。あの長い髪はチリチリでロマンティックのかけらさえなく、ショパンやリストから死罪を言い渡されそうなほど薄汚い。その貴族的な服にいたっては浮浪者かと思われるぐらいボロボロで、マリー・アントワネットの代わりにギロチンにかけられそうなほどである。大振はこの宿敵のあまりの変貌に衝撃を受けてその場に立ち尽くした。

 すると突然倒れていた枯れ木の諸般リストがピクリと動き出した。そのカクカクとした動きはまるで死にかけの病人そのものであった。大振はその諸般を見て思わず彼の元に駆けつけて声をかけた。

「貴様、諸般リストだな!そんな枯れ木みたいな見窄らしい格好をして何をふざけているのだ!まさかこの大振拓人から逃げるためにそうしているわけではあるまいな!」

 この大振の声を聞いて空港内は騒然となった。枯れ木の諸般の前に群がっていた野次馬の中の女どもはそこに燕尾服姿で仁王立ちしている大振を見て驚いた。そしてその大振から目の前に転がっている枯れ木が実は人間であり、しかもあのロマンティックヴィルトゥオーソの諸般リストであることを聞かされて歓喜と衝撃のあまり大絶叫した。その絶叫を聞きつけて空港中の者たちが大振と諸般の元に殺到した。その群衆の注目を一身に浴びた大振は枯れ木の諸般に向かって再び声をかけた。

「俺の質問に答えろ諸般!貴様その汚らしい髪はどうしたのだ。以前ここで会った時、貴様は背中につけた扇風機でバカバカしいほどロマンティックに髪を靡かせていたではないか。あの扇風機はどうしたのだ!」

 それを聞いて諸般リストはカクカクと体を回転させて大振に背中の扇風機を見せた。

「ふっ、僕のロマンティックサーキュレーターはもうボロボロになってしまったのさ」

 大振は早速諸般の背中のロマンティックサーキュレーターとやらを見たのだが、諸般の言う通り完全にサビだらけで羽はボロボロであり完全にゴミだった。

「せっかく最期のピアノを弾きに先祖のふるさとのこのジャパンに来たのに、ここで終いだなんて……ああ!」

 諸般はこう叫び最後の抵抗とばかりに天を掴もうと立ち上がろうとした。だが彼はその途中で意識を失いぐったりと崩れ落ちた。大振は必死で崩れ落ちる諸般に駆け寄り、彼が地面に叩きつけられる寸前に抱き止めた。そして大振は諸般を抱き抱えたままマスコミに向かってこう言い放った。

「申し訳ないが明日の記者会見は中止だ!会見はこの諸般の体調が回復次第行うことにする。だが案ずる事はない。僕と諸般は必ずコンサートまでに曲を完成させ、そして最高のコンサートをする。いや復活しなくても僕が一人で曲を作り、コイツも無理矢理コンサートに引きずり出してやる!」

 大振のこの堂々とした見事な宣言に空港中から拍手喝采が起きた。今、空港中と言ったが本当に空港の中にいる全人間が大振に喝采を送ったのである。空港の職員は大振の男らしい宣言に感動するあまり全員職場放棄した。おかげで飛行機のダイヤは混乱しまくり、到着予定の飛行機は着陸できず近所の畑に不時着したが、そんな事は大振の諸般への思いとコンサートへの決意を語った宣言が与えた感動に比べればどうでもいい些事に過ぎなかった。

メランコリア

 諸般リストはすぐに救急車で病院に搬送されたが、その救急車には大振拓人も一緒に乗り込んだ。スタッフとマスコミはこの大振の行動を見て非常に驚いた。あの傲慢チキのパワハラ常習犯で、血も涙もないと言われる大振が、ここまで一人の人間に親身になるとは。彼らはやはり大振と諸般は不倶戴天の敵同士とはいえ、やはり音楽家同士の絆があったのだと感動した。

 当の大振は救急車の中で担架に横たわっている諸般を憎さげに見て、この男を助けたことをひたすら悔いていた。ああ!こんな粗大ゴミを何故助けたのか!恩義のある人間なら粗大ゴミ以下の人間でも慈悲の心で助けもしよう!だがこいつには恩義どころか軽蔑と憎しみしかない! 

 クラシック界の面汚し。ピアニストという名の曲芸師。恥知らずにもロマンティックヴィルトゥオーソなどと名乗り、偉大なるクラシックを見せ物にまで貶めた男。こんな男をこの偉大な二十一世紀最大の音楽家である、この大振拓人が助けてしまうとは!こんな枯れ木の粗大ゴミなど、あの場に見捨てて朽ち果てさせればよかったのに! 

 あの詐欺師もどきのプロモーターは日頃から俺とこの粗大ゴミを似たもの同士だと言っていた。俺もそれを感じてこの粗大ゴミに親愛の情を感じてしまったのか。いや違う!このフォルテシモに偉大な音楽家の俺とバカメリカンの曲芸師のコイツでは神とちり紙ほどの違いがある!ただの気まぐれに過ぎぬ!今からでもいい!早くコイツを救急車から捨てようと諸般を持ち上げてやると大振は担架から諸般を持ち上げて投げ捨てようとした。

 大振のあまりに奇怪な行動に驚いた救急隊員が慌てて彼を止めた。しかし大振は逆に救急隊員をボコボコにしてバックドアを強引に開けてそこから諸般を投げ捨てようとした。だがその瞬間大振は突然この枯れ木の粗大ゴミが突然愛しくなってきたのだ。大振はそれでも気まぐれだと振り切って諸般を投げようとした。だが出来なかった。彼は突如として現れた愛情に負けて諸般を投げ捨てる事をやめた。結局大振は諸般を担架に戻しいつの間にか止まったいた救急車の運転手に早く病院に向かわんか!と怒鳴りつけた。

 病院に着き諸般リストは早速緊急治療を受けた。大振はその緊急治療室の前で諸般の治療が終わるのを待っている間ずっと妙な胸騒ぎを覚えていた。さっきまで投げ捨てようとしていたあの枯れ木の粗大ゴミを何故ここまで心配するのか。さっきまであんな粗大ゴミは捨てて当然だと思っていたじゃないか!なのにどうして今あの粗大ゴミが助かるかどうか心配するのだ。ああ!これはただの憐れみ!粗大ゴミをペットか何かと錯覚したが故の憐れみに過ぎないのだ!だが今彼は一方でその粗大ゴミの生死を心臓が破裂しそうなるのを抑えながら必死で見守っていた。

 それからしばらくして緊急治療室の扉が開いた。中から医師とベッドの諸般とそのベッドを運んでいる看護師が現れた。医師は大振を呼んで別室に来るように声をかけた。大振はクラシックに無知な医師がフォルテシモなカリスマ指揮者大振拓人を知らないため、自分を諸般の兄弟と誤解していると思い、その場で自分がいかに素晴らしくフォルテシモな指揮者である事をアピールして誤解を正そうとしたが、しかしすぐに今の諸般が完全にぼっちなのに気づいて仕方なく医師の元へ向かう事にした。

 部屋の中で医師は意外にも平静な顔で大振に諸般の病状を説明したが、それによると諸般は特に病気らしい病気はないが、極端な栄養失調で、このまま何も食べなければいずれ死んでしまうという事だった。大振はこれを聞いて全く人騒がせなバカメリカン!ただのダイエットの失敗だったのか!いかにもバカメリカンらしい所業だと呆れ果てたが、医師は続けてこう言ったので急に耳を正した。

「とりあえず、健康上は何の問題もないので何か食べさせれば体調はすぐに回復に向かうと思うのですが、ただ精神の状態が非常に悪く、治療中も、死ぬ、僕は死ぬ、ロマンティックに僕は死ぬと繰り返し譫言を言っていて、このまま放っておいたら大変危険かと。一度専門の病院で診てもらった方がよろしいと思います」

 これを聞いて大振は驚愕した。このバカメリカンがメランコリアというロマンティックな病に憑かれただと?メランコリアは洗練された文化を持つヨーロッパの芸術家や、俺のような規格外の天才芸術家のみがかかる病だ!奴如きいつもハッピーセットなバカメリカンの曲芸師がかかるはずがない!ヨーロッパをひたすら讃え、アメリカ文化を果てしなく軽蔑する大振には諸般のようなハッピーセットなバカメリカンがメランコリアにかかった事を知って激しく憤激した。

 大振は医師の部屋から出るとまっすぐ諸般が収容されている個室に向かった。そして諸般の部屋のドアをそっと開けたが、諸般はすでに目覚めており、大振を認めるとハローと片手を上げて気のない挨拶をしてきた。大振は撫然とした顔で鼻を鳴らして諸般に向かって空港での出来事を語り、そして貴様どうしてそんな枯れ木みたいな格好をしているんだ!貴様のせいで明日の記者会見はなくなったんだ!貴様は本当に俺と曲を作る気があるのか?ましてやコンサートなどやれるのか?この枯れ木の粗大ゴミめ!と徹底的に諸般を罵倒した。そして最後に押し付けがましく自分が助けなきゃ貴様は死んでいたのだぞ。俺に感謝しろと語って自分への感謝を強要した。

 しかし諸般は大振に感謝も激怒もせず、突然体を震わせて泣き出した。大振はこのロマンティック気取りの男のあまりに意外な反応に驚愕した。

「オー、スティック・ボーイ。僕はもうダメだ。もうピアノなんて弾けないよ」

「何を言っているのだ貴様!俺と共作の協奏曲の話はどうなったのだ!それよりもコンサートはどうするのだ!協奏曲なら天才の俺が才能ゼロの貴様の代わりに全部書いてやるが、コンサートは俺一人じゃ出来んのだ!いや、俺一人でもコンサートはできる!だがこのコンサートはあくまで俺のフォルテシモな指揮で貴様をとっちめてやるためのコンサートなんだぞ!貴様が出なければ意味がないのだ!それなのにピアノが弾けないだと!貴様もしかして俺のフォルテシモな指揮が怖くて逃げるつもりか?正直に言え!貴様はコンサートで俺にとっちめられるのが怖くてステージに立てません申し訳ありませんと跪いて俺に懺悔しろ!」

 大振は諸般のあまりにも情けない言葉に憤慨して激しく怒鳴り散らした。すると諸般が突然拳で激しくベッドを叩いて叫んだ。

「ボーイ!さっきも言っただろ!僕にはもうピアノなんて弾けないんだよ!今の僕にはピアノなんて全く意味のない存在だ!今の僕にできるのは死ぬことだけだ!先祖から受け継がれたヤマトスピリッツを抱いてこの地でロマンティックに朽ち果てるのさ!ふっ、最初はこのむなしい人生の最期を君のコンサートで飾って死ぬつもりだった。だけどそれさえもう出来なくなったんだ!僕はもう終わりだよ!ジ・エンドだ!」

 諸般はこう激白すると両手で頭を抱えて号泣した。諸般の悲しい絶叫を聞いて大振は深い衝撃を受けた。このハッピーセットのバカメリカンがこれほどに人生に絶望しているとは!この絶望っぷりは、まるでこの間までの俺そのものではないか!ああ!大振は今心から諸般に同情し始めていた。人を人とも思わない大振が他人の不幸に初めて心を揺さぶられたのである。大振は諸般に何があったのか知りたかった。それを知れば彼を救えると思ったからである。

「諸般!貴様に一体何があったのだ!俺に全部話してみろ!」

二枚の写真

 大振は諸般に向かってこう呼びかけた。ああ!これほどにこの皇帝のように傲慢な男が無心の心で他人に手を差し伸べたことがあっただろうか。大振は生まれて初めて慈愛というものを知ったのだ。諸般はこの大振の態度に衝撃を受けて涙さえ止めてしまった。大振はその諸般を熱く見つめて諸般の言葉を待った。すると諸般はボロボロの貴族服のポケットから一枚の写真を取り出して大振に見せた。

「これが僕の凋落のすべての原因さ」

 大振はその写真に写っている男を見て先ほどよりさらに激しい衝撃を受けた。なんとあのデブのホルストにそっくりではないか!写真の男はあの因縁のデブと髪と肌の色以外まるで瓜二つだったのだ。写真のデブは金髪のホルストと違い輝くばかりの黒髪で、肌は白デブのホルストと違い見事に日に焼けていた。大振はもしかしたら本人ではないかと思った。コイツはイメチェンしたに違いない!あの呪わしい『トリスタンとイゾルデ』の開演の前に奴はダイエットに成功していた。それて調子に乗ってラテン系に成り済ましたのだ!ラテンの熱い魅力で再びイリーナを口説き落とそうとして!ああ!イリーナ!イリーナ!君は今どこにいるんだ!だがこの男は本当にあのホルストなのか?イメチェンしたホルストなのか?大振は諸般に尋ねた。

「この男は誰だ!もしかしてホルストとかいうバイエルン人じゃなかろうな!」

 諸般はこの大振の問いを聞いて一瞬何事かと訝しんだが、すぐに何事か察していわくありげに微笑んだ。

「残念ながら写真の男は君の愛するホルストじゃないよ。まあ、名前は多少似ているけどね。この男は、僕が唯一愛した恋人、ホセ・ホルスさ」

 この諸般の衝撃的な告白に大振は唖然とした。まさか貴様がゲイだったとは!いや、なんとなく身振りからもしかしたらそうではないかと思っていた。男らしさのかけらもないその扇風機で髪を靡かせたロマンティック気取りの薄っぺらなスタイルはまさにバカメリカンのゲイそのものだ。ゲイの作曲家がほとんどいないクラシックの世界にもたった一人例外がいる。それはあのチャイコフスキーだ!チャイコフスキーは自分が呪われしゲイであること悩んで自ら命を絶った。こいつもゲイに悩んで自ら命を絶とうというのか。だが俺がそんなことはさせん!何故なら貴様は芸術家ではなく、薄っぺらなバカメリカンのピアニストでしかないからだ!貴様など俺のこの指揮棒で串刺しにして一生この世に留めてやる!

「そのホルスとやらはどうしたのだ。何故一緒に日本に来なかったのだ」

「君はそれを僕に聞くのかい?残酷な人だね君は。僕のホセは、あのチカーノの天使は、このメキシコのメドゥーサに奪われてしまったんだぁ!」

 諸般はこう叫ぶと服のポケットからもう一枚の写真を出して大振に投げつけた。

「そいつが僕からホセを奪った憎きメドゥーサ、イザベル・ボロレゴだ!」

 大振は床に落ちた写真を拾って諸般のいうメキシコのメドゥーサとやらの顔を見た。彼はボロレゴなんてアホな名前からしてどうせラテン系のバカ女に違いないと写真を一瞬だけ見て返そうとしたのだが、写真を見た瞬間ホルストどころじゃない衝撃に思わず気を失いかけた。ああ!写真に写っているのは、愛しいイリーナ・ボロソワその人ではないか!確かに写真の女は黒髪に褐色の肌をして我がイリーナとは全く違う!たがその瞳、その口元、その肉感的な体すべてがイリーナだった。よく考えれば名前までイリーナに似ているではないか!ああ!なんてことだ!イリーナよ!どうしてお前は俺をここまで苛むのだ!俺は何度もお前との思い出を捨てようとしているのに、いつのまにか戻ってきて、今度はこんな売女のラテン女姿で現れるのか!ああ!耐えきれぬ!この地獄は俺には到底耐えきれぬ!大振は地面に這いつくばって泣き崩れた。ああ!大振の号泣ぶりに影響されて諸般も号泣し始めた。まさか指揮者とピアニストが涙の二重唱をするとは誰も思わぬだろう。しかしここでそれが起こってしまっていた。病院内はこの涙の二重唱で機材にトラブルが続発し、助かる命も助からない異常事態を迎えたが、幸いにも誰も死ななかった。

 散々涙の二重唱を歌い尽くした後、諸般は大振に向かって微笑み、多分君も僕と同じように失恋したんだねと言った。大振はそれに対し衝動的に諸般の写真の女によく似たイリーナ・ボロソワとの出会いから舞台上で振られるまでの経緯をトイレ休憩三回ほど挟んで涙ながらに語ったが、それを聞いた諸般は大振を真から憐れみ、我がソウルブラザーと叫んで抱きつこうとした。しかし、大振は冷静にその手を撥ね退けて早く貴様のことを教えろと言った。

呪わしき二人

 すると諸般は涙ながらにホセ・ホルスとの失恋の顛末を語り始めた。諸般によると彼がホセと出会ったのはサンディエゴのコンサートホールだったという。その日コンサートが大成功に終わった諸般はスタッフと共に、打ち上げ会場の有名ホテルに向かうために、ホールの裏口に待たせてあった車に乗ろうとした。そこにホセが飛び込んできたのだ。彼は大袈裟な身振りでまず自分が諸般のファンである事、そして自分がオペラ歌手を目指している事を涙ながらに語った。諸般はこのビンボ臭い格好のステーキみたいに焼けた男に嫌悪感を感じてスタッフにつまみ出せと言いつけてそのまま車に乗り込もうとしたのだが、その時突然ホセが歌い出したのだ。

「ああ!あの時のオー・ソレ・ミオと歌うホセはなんと素晴らしかっただろう!その見た目通りの荒々しいテノールは僕をノックダウンさせてしまったんだ!僕はこのロマンティックのかけらもないチカーノに、未来のパヴァロッティを、ドミンゴを、カレーラスを見たんだ!いや、その三大テノールを遥かに超える天才を見たんだ!ああ!僕は信じられなかったよ!こんなチカーノの野蛮人がこれほどロマンティックなヴォイスを持っているなんて!」

 オペラ歌手という言葉を耳にして大振は即座にイリーナの事を思い出した。ああ!イリーナ!イリーナ!お前も僕に天使のソプラノを聴かせてくれた!なのに何故お前はここにいないのか!

「僕はホセの歌を聴いた瞬間はもう打ち上げなんてどうでも良くなったんだ。今すぐにこのホセを連れて帰らねばと僕は思ったんだ。だから僕は何故か耳を塞いで倒れているスタッフに打ち上げには行かないといって、そのまま彼を乗せてホテルの部屋に入ったんだ。ああ!その部屋でのホセはなんて素晴らしかっただろう!再びのオー・ソレ・ミオの絶唱、続いて僕の伴奏での『サンタ・ルチア』の熱唱、そして二人で互いの肉をシンバルがわりに激しく叩いて歌う裸の二重唱!ああ!思い出すよ!天地が揺れるほど激しいあの二重唱を!僕は彼の焼け爛れ、張ち切れんばかりに膨らんだ愛を差し挿れられて、文字通り360度夜通しロマンティックに回されたんだ!」

 大振は諸般が語るホセとの熱い情事にトリスタンとイゾルデで自分とホルストがやらかした大惨事の場面を思い出して吐きそうになった。おおなんと悍ましい!あんな白ブタそっくりの男とそんな醜悪な事が出来るとは!俺は今もイリーナとあの白ブタを間違って求めた事を激しく後悔しているのに!

「僕らはそれから恋人同士となってアメリカ中を回ったよ。それからヨーロッパに行って。僕はアメリカでもヨーロッパでもホセをオペラ歌手としてデビューさせるために、コンサートのプロモーターからレコード会社の重役まで彼を見せて回ったんだ。だけどダメだったんだよ!この僕の名声を持ってしても、どれだけ大金を叩いても、みんな彼の天才を受け入れなかったんだ!だけど僕はホセの歌唱を生で聴かせてやれば皆一瞬でわかるだろうと信じて、あるコンサートに無理矢理を彼出して僕の伴奏でオー・ソレ・ミオを歌わせたんだ。だけど結果は散々だった。みんなチカーノのホセを忌み嫌い「ユーアージャイアン?」とか「聴覚が死ぬ」とか「そりゃおー、ソレは歌うな」と散々ブーイングを垂れて挙げ句の果てに倒れている奴がいるぞとか言い出して救急車なんか呼んだんだ。全くなんて酷い観客だ!僕のホセのロマンティックヴォイスが理解できないなんて!」

 諸般が語るホセへの切ない愛に大振は深く感動してしまった。歌えば客席に一斉にブーイングが起こさせるどころか、急病人まで出すほどロマンティックな歌を披露するホセ。そんな男をロマンティックだとひたすら崇めてデビューさせるために涙ぐましい努力をする諸般。だが彼はその切ない話を聞いて何故ホセがデビュー出来なかったか完全に理解してしまった。要するにホセは歌が下手だったのだ。

「でもそれでもホセとの愛の日々は最高にロマンティックだったよ。僕はパリのショパンの墓をホセと一緒したんだけどその時とんでもなくロマンティックな気分になってスタッフにピアノ持って来させて彼の曲を演奏したのさ。ああ!ショパンも僕の演奏のロマンティックさに墓場から思わず飛び出て来そうだったよ。そしてホセがそのショパンのあまり知られていない曲を歌った瞬間、なんと墓が思いっきりドスンドスンとすごい地響きを立てて鳴り出したんだ。僕はショパンもホセのロマンティックなヴォイスに感動しているのかと思って泣きそうになったよ。リストの時も同じだった。ホセが歌い出した瞬間、ショパンの時と同じようにリスト墓をドスンドスンとさせたんだ。僕はそれを見てショパンもリストも彼を認めているのになんで世間は認めないんだと涙したよ。ホセはメトロポリタン歌劇場で喝采を浴びるべき人間なのにって!あ、そうだ。ホセは日本にも連れてきたんだ。君との共演コンサートの時にね」

 では俺はそのホセってホルストそっくりな奴に会っているかもしれないってことか!ということはあの悲劇の種はイリーナと出会う前からすでに撒かれていたということだ!ああ!イリーナ!僕らは最初から結ばれぬ運命だったのか!大振は我が身の不幸を嘆いた。だがその時諸般が突然絶叫したのでハッとして我に返った。

「そこに突然あのメキシコのメデューサが現れたんだ!」

 痛ましい絶叫であった。その枯れ木のような体が折れてしまうぐらいの大絶叫であった。

「あのメデューサが最初に現れたのはメキシコ公園の帰道に寄ったとあるタコスレストランだった。僕はそこにホセと一緒に入ったんだ。僕はタコスなんて食べる趣味はないが、ホセがどうしても行きたがっていてね。それで店に入ったらすぐにとんでもなくまるまる太ったデブの女が出てきた。それがイザベル・ボロレゴだ!」

 そのデブがイザベルだと?ならイリーナにそっくりの写真の女はなんなのだ。

 諸般リストは今度はデブのイザベル・ボロレゴについて語り始めた。彼によるとイザベルは二人が立ち寄ったタコスレストランの従業員で、この夜は彼女しか出勤していなかったらしい。デブのイザベルはホセと諸般をプロレスラーとスーパーモデルのカップルみたいだと褒めちぎった。諸般はこの褒め言葉に感激してサンキューと礼を言ったが、その時女は本当に目が飛び出てしまったほど驚いたそうだ。どうやら彼女は諸般を女だと思っていたらしい。イザベルはその飛び出た目で諸般とホセを凝視した。その後二人はタコスを注文し出来た料理を食べたが、ホセはタコスを食べた途端泣き出した。そしてイザベルにこれはグランママのタコスそっくりだ。出来ればまた食べに来たいと料理の感想を伝えたが、それを聞いたデブのイザベルが突然泣き出した。彼女によれば店は今月で廃業でそうなったら自分は路頭に迷って餓死すると、餓死しなさそうな体で我が身の不幸を嘆いたという。ホセはそのイザベルに深く同情し、彼女をコックとして雇ってくれと泣きながら諸般に訴えた。

「ああ!今考えればあのデブのイザベルをコックに雇うべきではなかったのだ!あのデブはただのデブじゃなくてメドゥーサだったのだから!」

 ホセの土下座での必死の懇願に負けイザベル・ボロレゴをコックとして雇うことにした諸般であったが、彼は最初からイザベルを忌み嫌っていた。彼女を嫌うあまり諸般は彼女を自分の家である『ロマンティック・パレス』に決して住まわせず、そばの豚小屋に等しい小屋にぶち込んだ。スーパーモデルの如き美意識でどんな時でも背中の扇風機で髪をロマンティックに靡かせている彼にはこのデブのラテン女と同じ空間にいることすら耐えられなかったのである。彼がそれでもイザベルを受け入れたのはただホセへの熱い想いからだった。諸般はイザベルから元々は歌手になりたかったと告白された時には思いっきり嘲笑した。

「だって笑えるじゃないか。この美のかけらもないバカなメキシコ女がかつてオペラ歌手を目指していたなんてね。しかもポップスまで歌いたかったらしい!あんなコアラみたいなゲップ声で呆れるよ。だから僕はあのデブに言いつけたんだ。二度と僕の前で歌を歌うなと。まぁ耳が汚れるからね」

 大振りは笑いながら諸般がこう喋ったのを聞いて思わず目を剥いた。オペラ歌手にポップス?ああ!まるでイリーナじゃないか!ひょっとして諸般も俺と同じような悲劇を味わったのか?

 この大振の推測は正しかった。いや正しかったどころか大振のそれをはるかに上回る悲劇が諸般を待っていたのである。

 諸般リストとホセ・ホルスの同棲生活はいかにもロマンティック・ピアニストの諸般らしい熱く熱情的なものであった。諸般のロマンティックの結晶であるロマンティックパレスは過剰なまでにロマンティックな愛の巣となった。いつでもどこでも二人はロマンティックに愛を繰り広げた。そのロマンティックから弾かれたイザベルはいつも悔し泣きで二人の愛し合う光景を見ていた。そんなある夜彼女は寂しい病気になる程の淋しさにたまらず、つい諸般の禁則を破って庭で歌を歌ってしまった。するとその時拍手が聞こえたのである。イザベルが音の鳴る方を見るとそこにホセが立っていた。ホセはイザベルになんて素敵な声なんだと褒め上げた。「まるで天使の歌声のようだった。コアラさえ思わず昇天してしまうほどの」「まあ!」イザベルはホセが褒め言葉に感激して思わず泣いた。ホセは泣いているイザベルに向かって自分の下半身を指さしながらこう言った。「お前がもうちょっと痩せてくれたらロマンティックにコイツをぶち込んでやるのに」これを聞いたイザベルは目を見開いた。「痩せればアンタとロマンティック出来るの?」ホセは笑って答える。「たりまえだろ。あんなオカマ野郎にはもううんざりさ」それを聞いたイザベルは目を輝かせてホセにこう宣言した。「私絶対に痩せてアンタとロマンティックしてみせる!」

悲劇の顛末

 ああ!これが諸般の悲劇の始まりであった。もはや悲劇のトリガーはロマンティックに弾かれていたのだ。ホセははじめは諸般をロマンティックに愛していたが、元々営業ゲイであるホセはだんだん諸般を疎ましく思うようになった。確かに初めのうちは自身の360度ロマンティックフル回転に悶える諸般に興奮しまくったが、諸般がもっともっととさらなる弩級のロマンティックを要求して来たのでうんざりしてきた。おまけに諸般は女以上に嫉妬深かった。明日のロマンティックホールに放出したロマンティックミルクがちょっとでも少ないと「すぐ浮気したのね!僕以外の男とロマンティックしたのね!誰とロマンティックしたか正直に言いなさい!」と一晩中喚き散らした。ホセはそんな諸般に誤解だと弁明し、お前を想像してミルクを放出していたからこんなに少なくなっちまったんだと弁明したが、諸般はそれでも信ぜず発狂したかのように彼を責めた。ホセはもうそんな地獄の毎日から脱出したかった。だが、諸般の元を離れたらまた昔に逆戻りだ。離れるなんて出来ない。

 ホセがイザベルに例の冗談を言ったのはそんな状態の時だった、しかしそれはあくまでも冗談でしかなかった。バカ野郎、あんなデブがダイエットなんて出来るわけねえだろ。もし仮に出来たとしても痩せた不細工が現れるだけだ。彼はボロ小屋の窓に映るダイエットの本を必死こいて読むイザベルを見て無駄な努力と嘲笑った。

 だが奇跡は起こってしまった。ロマンティックが突然に始まるように奇跡もまた突然に現れてしまったのだ。なんと実家に帰っていたイザベル・ボロレゴがまるでディーヴァの如き美人に生まれ変わって戻ってきたのだ。これは諸般もホセも驚愕した。ホセはこの奇跡に興奮し目を充血させたが、諸般はそのホセを見て愕然となった。まさかホセ。もしかしてこの痩せたビッチに惚れてしまったのかい?僕というロマンティックな恋人がいながら!

「ふふふ、私メキシコに帰ったら何故か痩せちゃったの。不思議ね」

 不思議もクソもなかった。この元デブはメキシコの田舎に帰ると嘘ついてロスで脂肪吸引手術を受けてきたのである。全く女の美貌に対する執念は恐ろしい。イザベルは貪婪な視線でホセを見た。ホセもまた欲情を丸出しにしてイザベルをガン見した。諸般はその二人の互いをむさぼるような目を見てもしかしたらホセがこの美人に生まれ変わったイザベルに奪われぬかもしれぬと怯えた。

 諸般はこの思わぬ事態に不安に陥ってしまった。彼の愛するホセがこのメキシコのバカ女に魅入られてしまった。ここで彼が浮気をしたら家から出て行ってもらうと脅しつければホセは今も彼の元にあっただろう。だが諸般にはそれが出来なかった。自分がもしそうしたらホセはイザベルの元にいってしまうと思ったからだ。

 ホセはその諸般の不安を巧みに利用した。彼は諸般に対して急に強気になり、ロマンティックの時も何もせず諸般に対して果てしなきロマンティックを要求したのである。諸般が嫌がるとじゃあお前と別れるぞと脅しつけた。それで仕方なく諸般がいやいやのロマンティックをしたのだが、ホセはピシャリと彼の頬を叩き、「もっと優しくロマンティックに舐めろ!」と怒鳴りつけた。諸般は一瞬にしてホセの奴隷になってしまった。だが諸般はそれでもホセを追い出さず、彼に尽くしたのである。ああ!ホセをあまりにもロマンティックに愛するがゆえに!

 こうして諸般をロマンティックに屈服させたホセはさらなる要求をした。メトロポリタン歌劇場で自分とイザベルのリサイタルをやれと言い出したのである。諸般はこの無茶にも程がある要求を「君一人だったらブッキング出来るけど、あんなコアラ以下の歌しか歌えない女はダメだ」と言って拒否したのだが、ホセはそれを聞いて笑いじゃあ俺とお前はここで終わりだと言って出て行こうとした。諸般はそれを泣いて止めた。

「お願い!僕を捨てないで!君に捨てられたら僕は死ぬしかないんだ!」

 こうしてメトロポリタン歌劇場で全く無名どころか完全なる素人のホセ・ホルスとイザベル・ボロレゴのリサイタルが開かれることになったのだが、いざチケットを販売しても殺人的に売れなかったので、プロモーターは諸般に向かってこれじゃうちは大赤字で破産すると捲し立てた。それではと諸般がピアノの伴奏で参加する事になったが、肝心のホセとイザベルがそれを嫌がった。二人はゴージャスなオーケストラの演奏じゃなきゃ歌う気になれなと頑強に主張したのだ。だが肝心の主役が素人ではチケットが売れるわけがない。それではと諸般は愛するホセのためにコンサートを成功させようとあらゆる媒体でホセ・ホルスとイザベル・ボロレゴのコンサートを宣伝した。彼はあらゆるメディアに向かってホセの素晴らしい歌唱を讃え、聴いていたら気を失うほど素晴らしいんだと語り倒していたが、その姿はもういじましい程だった。

 その甲斐もあってどうにか半分以上は埋まったメトロポリタン歌劇場でホセ・ホルスとイザベル・ボロレゴのリサイタルは無事開演を迎えたが、それはもう地獄の光景であった。ゴージャスなオーケストラが全く意味がなくなるほどの美声は客の耳を突き刺し次から次へと気を失わせた。だが、どうにか無事に美声に耐えた客たちは一斉にステージの二人に向かっていろんなものを投げつけた。ステージは空きビン、空き缶、燃えるゴミ、燃えないゴミ、粗大ごみ、生もの、プラスティック、産業廃棄物、危険物などゴミの分別もしようがないほどのゴミで埋め尽くされた。だが、ステージの二人はそんなことを全く気付かずにメトロポリタン歌劇場に朗々と美声を響かせた。

 ピアノを弾くことさえ禁じられた諸般はホセの美声にうっとりし、イザベルのコアラマーチのゲップ声には吐き気を催しながら、なんとかホセを救おうと思っていた。ホセはイザベルに洗脳されているだけに過ぎない。だから僕のロマンティックラブパワーをホセの体に注げば彼の洗脳は解け、再び僕の元に帰ってくるだろう。だが、今自分はステージにすら上がれず客席に閉じ込められている。ステージの二人は現実を超えて完全に二人の世界に入って行ってしまった。諸般はホセをイザベルから救い出そうと思ったが、しかしそうしたらホセが怒って自分の元から永遠に去ってしまうことを恐れて立ち止まった。ああ!今、リサイタルのプログラムの最後の曲ワーグナーの『愛の死』のオーケストラが鳴りだした。

 『愛の死』だって!大振は諸般が愛の死の件を口にした途端、胸が串刺しになる程の痛みを感じて崩れ落ちた。ああ!イリーナ!僕のイリーナ!あの時全裸でステージに駆け上がったのはただホルストから君を救いたかったからだ!ああ!諸般まさかお前も俺と同じように!

「その時突然ステージのライトが消えたんだ。僕は一瞬電源が落ちたのかと思ったけど、その時ライトは二人の顔だけを映し出したんだ。ああ!その時のイザベルの顔は人を海へと溺れさせるあのメドゥーサそのものだった!このメキシコのメドゥーサは僕のチカーノの天使ホセ・ホルスを地中海の海に沈めようとしていたんだ!僕はロマンティックラブパワーでホセを救おうと全裸になってステージに駆けだした。もうリサイタルがどうなっても構わなかった。ただ僕はホセを永遠に地中海に沈めようとしているこのイザベル・ボロレゴというメキシコのメドゥーサから救いたかっただけなんだ!」

 ああ!全く同じだった!まさかこのバカメリカンの自称ロマンティックピアニストがここまでフォルテシモに人を愛することが出来るとは!もう諸般の性癖への偏見など完全に吹き飛んでしまった。愛する人を救うために全裸でステージに駆けるなんてことをする奴が俺以外にいたとは!

「僕は全裸で暗闇の中ホセめがけて飛び込んだんだ!メキシコのメドゥーサの前で僕らの愛を見せつけて退散させるために!僕はホセを捕まえてそのままありったけのロマンティックを注いだんだ!久しぶりのホセとのロマンティックは新鮮だった。まるで初めてロマンティックしているみたいだった!だけどステージの明かりがついたとき、僕はそこにホセじゃなくてただのデブの警備員を見たんだ!ああ!僕はなんてことをしてしまったのか!ホセとイザベルは冷たい目で僕を見下ろしているではないか。僕は警備員をほっぽりだしてホセに向かって誤解だと必死に弁明した。だけどホセはイザベルを抱きながら僕にこう言ったんだ。「この野郎散々俺に浮気するなっていてたくせにてめえはやりまくりかよ!人のステージ台無しにしやがって!そんなにやりたきゃ外でやれ!」ってさ。それからホセとイザベルはメキシコに旅立ってしまった。しかも僕の財産を全て盗んで旅立ってしまったんだ!」

 諸般はこう語り終えると号泣して天井に向かって絶叫した。大振もまた号泣した。ここにいるのは俺そのものではないか!まさかあのプロモーターの言うことが当たっているとは思わなかった!ハッピーセットなバカメリカンのコイツがここまで俺と瓜二つだったとは!ああ!この指揮者とピアニストの二人はまた世界一ピュアな涙の二重唱を歌いだした。その二重唱は再び病院を突き抜けた。看護師の注射の針がが患者の動脈を刺し、心電図の電源が落ち、手術中のメスがいらない所を切り刻み、もう助かる命さえ助からない状態になったが、奇跡的なことに誰も死ななかった。

 大振はその果てしない号泣の二重唱の中で諸般を絶望から救わねばと決意した。この男はかつての俺と同じだ。俺もまた失恋の苦悩の果てに命まで捨てようとしたのだから。この男は一刻も早く救わねばならぬ。でなければ確実に枯れ木のように死んでしまうだろう。諸般はその大振に諦めきった顔でこう言った。

「こうして全財産を失った僕はそれからずっと死に場所を求めてさまよっていた。そんな僕に君から日本のコンサートの仕事が来たのは僥倖だったよ。これで思い残すことはないとね。最後にグランパパの故郷でピアノを弾いてそしてフジヤマの山頂でロマンティックにセップクして息絶える。最高の死に方だと思ったんだ。だがそれもダメになった。借金取りが僕のピアノまで奪ってしまったんだ!日本に着いたとき空港でたまたまその借金取りを見つけてピアノを返してくれと取ったらいきなり殴ってきた。君も見ただろ?ロマンティックに髪すら靡かせられなくなった惨めな僕を!もう終わりさ。あとは惨めに餓死するしかないのさ」

「バカ者が!貴様それでもクラシックのピアニストか!芸術家の端くれか!芸術家は困難な時ほど一層己が才能を輝かせるものだぞ!ベートヴェンを見ろ!チャイコフスキーを見ろ!貴様のレパートリーのラフマニノフを見ろ!みな降りかかってきた苦悩を乗り越えてあれほどの芸術を生み出したのだ!なのに貴様はなんだ!苦悩に立ち向かおうとせず、それどころか己が苦悩に押しつぶされるがままに泣きくれている!情けないと思わないのか!自分を憐れむより大事なことがあるだろう!貴様が今なすべきことはピアノを弾くことだ!貴様のロマンティックなピアノを俺のために弾くことではないのか!貴様はさっき死ぬために日本に来たと言ったな。だが俺はそんな奴と共演なんぞせぬ。なぜなら俺の指揮は死んだピアニストになど絶対に弾けぬものだからだ!貴様はただ甘ったれているだけなのだ!ハッピーセットのバカメリカンの薄っぺらな連中にちやほやされ、それで調子に乗って芸術の厳しさを忘れたがゆえに、芸術は苦悩を乗り越えて生まれるものだという事を完全に忘れてしまったのだ。さあ目覚めよ!今からでも遅くはない!苦悩を乗り越えて貴様の芸術を輝かせて見せろ!」

 ああ!なんという事だ!あの大振がここまで他人を叱咤激励するとは!あの傲慢で人を人とは思わない皇帝大振拓人が涙さえ浮かべて人の命を救おうとするとは!諸般リストはこの大振の激高ぶりに驚いて彼を見つめた。だが、すぐに顔を背けてこう呟いた。

「せっかくだけど僕はもう無理なのさ。僕は君みたいに強い人間じゃない。君の言う通りアメリカのハッピーな風土に染まり切った哀れで滑稽なロマンティストに過ぎないのさ。こうしてすべてが奪われて惨めに裸にされてすべてを悟ったんだ。ロマンティックのない僕なんてただの髪の靡かない枯れ木でしかなんだって!」

「この愚か者がっ!」大振はこう叫びながら諸般を殴り飛ばした。そのパンチのあまりの勢いに枯れ木の諸般がベッドの外に飛び出してしまった。諸般は折れた枯れ木のように背中を折って床に蹲っていた。そのまま動かないので大振は死んだかと思い慌てて諸般を抱きしめて呼びかけた。

「諸般!しっかりしろ!まだ死ぬんじゃない!」

 その大振の言葉が届いたのか諸般はしばらくしてからゆっくりと目を開けた。大振は死ななかったことに喜んで潤んだ目で彼を見つめた。すると諸般は歓喜に震える声で大振にこう言ったのである。

「僕、パパにさえ殴られたことなかった。こんなに、こんなに熱い気持ちで殴られたのは初めてだよ。僕、もう一度頑張ってみるよ。君のために!」

「諸般!」大振は思わず彼の名を叫んで思いっきり抱きしめた。ああ!ついにこの兄弟のような男たちは初めて互いを分かち合ったのだ。ともに音楽家として、芸術家として、男として!

「とりあえず飯でも食わんか。さっき医者から貴様が栄養失調だと聞いたのだ。今から近くの高級レストランに電話をしてコックを全員呼び寄せてやるから待ってろ」

 この大振の唖然とするぐらい優しい言葉に諸般は涙ぐみ頬を真っ赤にそめて泣き出した。

「でもいいのかい?今の僕には全くお金がないんだよ。ドルも円もすべてないんだよ」

 その諸般に対して大振は男らしくこう答えた。

「バカ者が!金の事は気にするな!貴様は全部俺に任せて体調を回復させることに専念していろ!」

 諸般は大振のこの男らしい照れを見て胸がキュンとなった。それは今まで感じたことのない切ない感情であった。


この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?