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愛は時を超えて

 いつもの妙な夢だった。夢の中で自分は雪山の山中の洞窟で獣皮を羽織り、槍を手に持に白い肌の少女と一緒に焚き火にあたっていた。少女は彼の黒い肌を指で突っつきウキャキャ!と猿みたいな声を出してはしゃいでいる。この少女は明らかにホモ・サピエンスではない。言葉をしゃべることが出来ず理解も出来ないこの人種はおそらく、いや確実にネアンデルタール人だ。人間とも獣ともつかない獣人というべきものだ。やがて夢はおぼろげになり日の光を感じたところでカリフは目を覚ました。

 カリフ・ケイタはアフリカ出身の人類学の気鋭の学者である。アフリカ中部の某国に生まれた彼は幼い頃から人類学に異様な興味を示していたが、人類発祥の地で生まれた彼にとってその道に進むことは自然であったかもしれない。しかし彼には子供の頃からそれよりももっと、心の奥深くから自分たちのルーツを知りたいという強い思いがあった。幸にして裕福な家に生まれた彼は両親の庇護のもと人類学を学ぶために国立大学に行き、そして優秀な成績で卒業すると、研究者への道へと真っ直ぐに飛び込んだ。彼はまずヨーロッパに留学し、続いてアメリカに留学したが、そこで待っていたのは、黒い肌を持つ彼への差別だった。道ゆく庶民ならず大学のインテリまで彼を遠ざけるような事をした。そんな時彼は何故に人類発祥の地で生まれた我らを差別するのかと憤ったが、しかし生来学者気質で揉め事が大嫌いな彼はぐっと堪えて耐え続けた。そして今はドイツの大学でネアンデルタール人の研究をしている。
 彼は朝食をとりながらさっきまで見ていた夢のことを考えた。夢の中の自分は獣皮を身にまとい、雪の降る山の洞窟で、猿みたいなネアンデルタール人と焚き火にあたっている。その夢は日を経るごとに鮮明に生々しくなっていく。まるで彼自身が体験したように。この夢を見始めてから彼は職場の白人の同僚を見るたびにネアンデルタール人のことが頭をかすめた。彼らはホモサピエンスであると同時にネアンデルタール人の末裔でもある。これは最近の人類学では最も有力な学説で、やがて定説になるであろう学説である。しかし完全なホモサピエンスであり、生まれてこの方白人の女性と交際したことのない自分が何故このような夢を見るのだろうか。同僚に相談しても、彼らのヨーロッパ人的な無自覚な優越感からくる遠慮のなさで「それは君の白人への憧れが無意識に現れたんだよ。恐らく君は心のどこかで白人になりたがっているのさ!」と一笑されるかもしれない。だからこの夢については自分の胸にしまっておくことにしたのだった。

 カリフがいつものように研究室で調べ物をしていると同僚が緊急の会議があると伝えてきた。彼は資料をまとめると同僚と連れ立って会議室に向かった。会議室への道すがら同僚がすごい大発見があったらしいぞと言った。そして会議室に着き、しばらくするとプロジェクトのリーダーであるヨーゼフ・シュナイダー教授が若干緊張面持ちで重々しい口を開いた。

「今回、皆に集まってもらったのは、調査隊から×××の山中の洞窟でネアンデルタール人の完全なミイラが見つかったと報告を受けたからだ。研究員によると偶然発見されたということだが、ここまで完璧なミイラは発見されたことはなく、氷の中で完璧に保存されているため下手に動かしたら損傷が出てしまう可能性が大なので、我々に直接現地に来るよう要請がきた。私はチームを特別に編成し、準備を整えて三日後には現地で研究を始められるようにしたい。それで調査隊が送ってくれたミイラの画像だが……」
 そう説明しながらヨーゼフがミイラの画像をプロジェクターに写した瞬間、カリフは心臓に打撃を味わったようなショックを受けた。ショックのあまり息さえ出来なかった。何故と自分に問いただしてもわからない。ミイラの画像に驚嘆の歓声を上げていた同僚たちはカリフの異変に気づくと彼を取り囲み、「大丈夫か」と声をかけてその背中を擦った。しばらくしてカリフは我に返り同僚に向かって大丈夫だという身振りをした。カリフはミイラの画像を見た瞬間、脳がひび割れそうな程の衝撃を受けた。ミイラは彼がいつも見ていた夢ネアンデルタール人の少女そっくりであった。ミイラを見ていると何故か彼女の映像がフラッシュバックのように次から次へと現れた。。カリフは感情が混乱して収集がつかなかった。夢でたびたび見る、彼女に自分がつけていた首飾りを上げた映像が浮かんでくる。少女はその首飾りを受け取るなり、いきなり口に放り込んで食べようとしたのだ。カリフはその時これは食い物じゃないと、少女の手から無理やりもぎ取り、彼女の首にかけた。彼女は最初は不満げな表情だったが、彼の喜んでいる表情を見て、彼女も嬉しくなったようで彼に向かって首飾りを見せびらかしだした。しかしその光景はあまりにも現実離れしていて、一瞬何かの幻覚を見ているような気がしたが、しかしカリフの頭に突如として現れたその光景は幻覚よりもはるかに実体のあるものだった。カリフは立ち上がるとヨーゼフ教授にしがみつき自分も調査隊に加えて欲しいと懇願していた。自分をチームの中に入れてほしい。このミイラを研究したいと。

 翌日ヨーゼフ教授から選考結果が伝えられ、カリフ・ケイタは研究チームのメンバーに選ばれた。これはカリフの業績が認められたのもあるが、昨今の人種問題への大学の配慮があったと思われる節もある。このような研究者にとって注目されるプロジェクトに、カリフのような有色人種の優秀な研究者を入れなければ大学への批判が殺到するかもしれない。大学の教授連はそう考えてカリフをチームのメンバーに入れたに違いない。と学内でそのような噂が広まっていた。
 やがて出発の日が来るとカリフを含めた研究チームはネアンデルタール人の少女のミイラが眠っている場所へと向かった。

 研究チームは×××山の麓で車を止め、そこからは徒歩で洞窟へと登る事になった。ちょっとした登山である。カリフは幸いにも肉体には恵まれていたので道中は問題なかった。ただ山の中に入っていくたびに妙な既視感を覚え始めてきた。無論カリフはここに来たのは初めてだ。今まで×××山など名前すら知りもしなかったところである。なのにこの景色に異様な懐かしささえ覚えるのだろうか。彼は先へ進むごとに遠い過去へと戻っていくような感じがして薄気味悪くなった。しかしカリフはどうにかこらえて洞窟へと向かっていた。その道中であった。彼の頭に急にフラッシュバックのように夢の映像が次から次へと現れたのである。洞窟の中で毛皮を羽織って火にあたっている自分。その自分をからかうように獣じみた表情で指で突っつき笑う白い肌の少女。洞窟に埋められていたミイラとはやはりあの夢の少女なのだろうか。まさか彼女が洞窟から自分を呼んでいると。早くあのミイラの少女に会わなければならない。カリフは自分でもわからぬ衝動に突き動かされて知らずに足を早めた。後ろから同僚の自分を呼ぶ声が聞こえてきた。しかし今の彼には同僚の呼びかけは聞こえないも同じであった。一歩一歩歩くごとにカリフの頭に映像が浮かぶ、それはもはや夢や幻覚ではなく、彼自身の失われた記憶であった。次から次へと映像が浮かんできてそれがまるでパズルのピースのようにはまってゆく。彼はバラバラの状態の映像を整理して一つの遠い過去の記憶をまとめ上げた。カリフの遠い過去の記憶とは次のようなものである。


 ホモサピエンスの一群は住処と食料を求めて旅をしているうちにいつの間にかアフリカから遠く離れた土地に来ていた。しかし人間の祖であり、知性と環境に対する適応力もあった彼らはすぐにこの土地に馴染みどうにか生活を営んでいた。この群れの中に若く精悍な男がいた。この男がカリフの夢の中に現れた男であり、夢の中の彼だった。
 カリフは若者の常で集落の生活に飽き飽きしており、遠くに見える雪山の向こうの世界が見たかった。その思いは日を経るごとに深まっていき、とうとう皆がまだ寝静まっている夜明け前に一人集落を出て山を目指して旅立ったのだった。

 アフリカのサバンナで暮らしていたカリフにとって山登りは非常に困難だった。彼は雪が舞い散る薄暗い闇の中、雪を踏みしめ、岩を掴み、時には木の根に足を取られながらどうにか道を進んでいたが、とうとう力尽きて動けなくなった。カリフは自らの無謀な冒険に後悔したが、もはや彼に集落に戻る体力はなく、完全に絶対絶命であった。カリフは自分の愚かな冒険を悔い、雪に埋もれて最後の時を待った。自分はここで凍え死に、その死骸は腹をすかせた獣たちに食べられてしまうのだろうか。あるいは獣にすら相手にされずそのまま腐って骨になるのだろうか。彼は薄れてゆく意識の中で死に対して虚しい抵抗を試みた。しかし体の疲労と冷えには勝てず、目の前が真っ暗になりその場に倒れた。

 カリフは目覚めた時、これがあの世かと思った。彼は時折長がやる呪いを思い出し、自分が死んだと思い激しく泣きじゃくった。しかしその時獣じみた鋭い鳴き声が聞こえてきた。彼は鳴き声にハッとして我に帰り自分がまだ生きていることに気づいてあたりを見回した。どうやら洞窟の中のようである。薄暗くて周りがよく見えない。カリフは周りを確認するために、懐の中から探り火打ち石を取り出すと壁に向かって思いっきりぶち当てた。辺りが一瞬光り洞窟内を映し出す。彼はそこに白い獣の姿を見た。そしてそれと同時に再び耳をつんざくような叫び声がした。彼は恐怖に震えてその場にへたり込んだ。さっき見た白い獣は狼なのだろうか。もしかしたらあれが自分をここに連れてきたのだろうか。だがなんの目的で。自分を助けるためにここまで引きずってきたのか。いや、違う。やはり自分を食べるためだろう。カリフは震えて屈み込んだ。足音が聞こえてくる。どうやらこちらに近づいているようだ。狼らしきものは獣じみた息を吐き、自分を食らおうとする。カリフは思いっきり目を閉じだ。今度こそもう終わりだ。

 カリフは思わぬ獣の肌の感触にハッとして驚いた。自分の頭を触っているのは明らかに自分と同じ人間の手だったからである。彼は勇気を出して獣を見た。そこにいたのは自分たちによく似ているが、明らかに別の種類の生き物だった。恐らくまだ子供なのだろうその生き物は肌が異様に白かった。少女は金髪の髪を立たせ、灰色の目でこちらを見ている。その顔は人間に限りなく似ているが異様に出っ張った鼻と半開きの口は人とは全く異なるものだ。胸にかすかな膨らみがあり、そこだけは自分の身の回りにいる女と同じであった。
 しかしこの半獣半人ともいえるこの少女はなぜ自分をこの洞窟にまで連れてきたのだろうか。とカリフは考えはじめた。やはり自分を食らうためだろうか。それとも雪の中で凍え死にそうな自分を助けてくれたのか。どうやら最初の考えが正しいように思われた。彼女は腹をすかせており、そこに偶然食べられそうな自分を見つけたのだ。カリフはそれに気づくとゾッとして思わず後退りした。
 少女はたらりと涎を垂らしてカリフに狙いをつけた。そして後退りして逃げようとするカリフの腹めがけて飛び込んだのだ。カリフの褐色の腹に白き獣の少女の歯が食い込む。カリフは激痛に耐えながらどうにか少女の頭を掴んで取り押さえた。彼は頭を持つ手に力を込めた。このままでは自分が食べられてしまう。カリフは全身の力を両手に込め思いっきり少女を投げ飛ばした。腹から血がどくどくと流れてくる。しかし少女はこの褐色の獲物を諦めない。歯を剥き出しにして再び彼に襲いかかろうとする。カリフは傷口を押さえようと腹を探っていたが、その時袋に干し肉をぶら下げていた事を思い出した。彼は袋から干し肉を取り出すとそれを少女に向かって投げた。
少女は突然投げられた干し肉に警戒していたが、近づいて匂いを嗅ぎそれが肉であることがわかると勢いよくかじりついた。そして肉をあっというまに平らげた少女は笑い、カリフに向かって肉をねだった。カリフはもう一度肉をやったが少女は嬉しそうに肉に飛びついた。少女はどうやら自分を餌でもなく敵でもないことがわかったようだ。
 カリフは洞窟の中に枯れた葉や木の枝が落ちているのを見つけた。どうやら少女が集めていたもののようだ。彼は葉や枝を集めると火打ち石を取り出して地面の岩を叩いた。少女は音に怯えて奇声をあげて後ずさりしたが、葉や枝の中からオレンジ色に光る火を見ると興味津々で近寄ってきた。彼女は炎に手を翳しニッコリと笑った。やがて彼女はカリフに寄り添ってきた。少女はカリフの腹に自分がつけた傷を見ると申し訳なさそうな顔をしてペロペロと傷口を舐めはじめた。
 この少女は群れから逸れたのだろうか。痩せ切った顔を見るとほとんどものを食べていないような気がした。彼女は一人では死んでしまうかもしれない。自分もどうせ一人だ。カリフは少女としばらくここで一緒に暮す事に決めた。

 まず二人がなすべき事は食料の確保だった。雪の降り積もる山で獲物はおいそれとは見つからない。動物たちはほとんど冬眠に入ってしまっている。だからカリフは木の実やきのこを探した。雪を掘ると意外に豊富にあった。彼は食料を持ち帰ると少女と一緒に食べた。少女は初めは木の実を嫌がったが、カリフが美味しそうに食べるのを見て自分も食べるようになった。彼らは時折冬眠中の小動物を見つけ食べたが、それは彼らにとってごちそうであり、二人は大喜びで食べたものだ。彼らは食事が終わると広場の奥にある泉で体を洗ったものだ。日中、泉の辺りは何故か明るかった。泉の付近の天井には隙間が出来ていてそこから日が漏れているからだった。二人はそれを見て喜び、毎日朝になると彼らは泉へと向かいその光景を眺めるのだった。
 少女はカリフと暮らし始めてから急に人間らしくなってきた。言葉を喋れぬ彼女はその態度で必死に自分の思いを伝え、カリフがそれに反応するとひどく喜んだ。またカリフが食料を探しに行こうとするときなど、泣きながら彼を止めたりしたことがあった。カリフは少女が人間らしくなっていくのを喜ばしく感じた。もしかしたらそのうち言葉さえ理解して喋れるようになるかも知れない。そうしたら彼女をより深く知ることが出来るだろう。集落のみんなは自分がこの異人種と一緒に暮らしていることを知ったらどう思うだろうか。もし少女を連れて集落に戻ったら皆はやはり彼女を追放するだろうか。そうしたら自分も少女と一緒にゆくだろう。彼女と離れ離れになることなど今の自分には耐えられぬ。二人はもはや離れ離れになることは出来なかった。


 カリフ・ケイタは雪を蹴り無我夢中で洞窟へと走った。あの少女が洞窟で自分を待っている。もしかしたら自分を待っているのかも知れない。だとしたら彼女は生きているのだろうか。生きて自分に助けを求めているのだろうか。何万年もずっと。
 洞窟の前にいた研究員達は息せき切って駆けてきた男のあまりに異様な風体に驚いた。彼らは目の前にいる褐色の顔の男に恐る恐る言葉をかけた。カリフは研究員の質問に大学より派遣されてきたメンバーの一人のカリフ・ケイタだと答え、もう少しでヨーゼフ。シュナイダー博士を始めとしたメンバーも来ると伝えた。研究員達はプロジェクトチームのメンバーにアフリカ人がいることに思い当たり、握手で彼を歓迎した。研究員達はカリフをテントに入れてコーヒーを差し入れると早速ミイラの状態について語りはじめた。

 研究員の話によると洞窟には少女のミイラの他に三体のネアンデルダール人の骨があったそうだ。少女のミイラは氷に覆われているが外からでもはっきりとその姿が確認できるということだった。そして研究員達は最後にこう付け足した。少女のミイラの胸には大きな傷跡がある。おそらくは槍のような物で刺されたもので刺されて少女は死んだのではないかと。
 カリフは研究員の話を聞いて頭を抱えその場に蹲った。彼は記憶の奥深くを探り思い出したくもない出来事を引っ張り出した。カリフは頭を上げると研究員達に今すぐ洞窟のミイラを見せてくれないかと懇願した。彼はどうしても確かめたかった。洞窟のミイラがあの少女であるかを。
 研究員達は顔を見合わせた。彼がアフリカ人であろうとプロジェクトチームのメンバーなのだ。しかしだからといってプロジェクトのリーダーのヨーゼフ博士の許可を得ないで洞窟に入れて良いものか。彼らはとりあえずカリフに、もう少し待てばヨーゼフ博士一行は来るはずだし待って見てはどうかと答えた。しかしカリフはそれで納得はしなかったどうしても今すぐミイラがみたい。お願いだ。私は博士たちが来るまでミイラには指一本触れはしない。ただひと目見るだけだ。
 研究員達はカリフの熱心な説得に負けて彼をミイラの元へと案内することにした。案内係の研究員は洞窟に入る前にカリフに洞窟の中で決してみだりに動かないでくださいと注意した。洞窟は非常に崩れやすくなっており、ちょっとした刺激で崩壊する危険があるらしい。カリフは研究員にわかったとうなずいて共に洞窟へと向かった。

 洞窟の中は非常に足場が悪かった。彼は研究員の腕につかまってゆっくりと向かった。記憶ではもっと足場のいいところだったはずだ。カリフの頭の中に洞窟の崩壊する映像が現れた。カリフは立ち止まり頭を抑えた。研究員はカリフに向かって大丈夫かと声をかけたが、彼は心配なと答えて研究員に先に進むように促した。しばらく進むと前方にやや広い場所が見えた。おそらくあそこに少女のミイラがあるはずだとカリフは確信した。自分の記憶が正しければ彼女は今もあそこに眠っているに違いない。そして研究員とカリフは足を進め広場の前に着いたところで研究員はカリフを止めた。
「ここから先は我々も入れません。先日送った少女のミイラもここから撮ったのです。ここからでもミイラは見ることは出来ます。ここでヨーゼフ博士が来るまで待機しましょう」

 カリフは研究員の指示におとなしく従い、ここからミイラを見ることにした。研究員は手持ちの懐中電灯を前に向けて広場の辺りを照らした。電灯に照らされた地面には先程聞かされたネアンデルダール人のおそらくは男性であろう骨が三体あった。その骨の近くにはおそらく槍であろう棒状のものが転がっていた。その地面から目線を上げて正面を見ると壁が氷で覆われており、その中に人のようなものが見える。カリフは目を凝らして氷を見た。彼はそこにあの少女を見たのだ。彼女は記憶の少女に瓜二つだった。氷の彼女は口を開けたまま、まるで氷に封印されているようだった。カリフは鼓動が急激に早まって行くのを感じた。彼は少女の顔から首の下へとゆっくりと視線を移してゆく。そしてカリフは少女の胸に大きく開いた傷口を見た瞬間思わず叫んでしまった。研究員が慌てて彼の口を塞いだ。氷漬けのミイラはまさしくあの少女であった。最後に見たその姿で彼女は何万年も氷の中に閉じ込められていたのだ。彼は少女を見ながら記憶のピースの最後のかけらをようやく見つけたのだ。決して思い出したくもないあの思い出。どうして自分は少女を救えなかったのか。

 あれ以来カリフと少女は洞窟を住処にして仲睦まじく暮らしていた。言葉さえわからぬ二人だったが、言葉など必要ないほど互いをわかり合っていた。二人はボディランゲージで単純なコミュニケーションは勿論。言葉を必要とする観念的な事柄までも伝え合っていた。カリフはこの暮らしが永遠に続けば良いと思い、少女もまたそうなれば良いと思っていた。しかし二人の幸福は突然断ち切られた。

 ある晴れた日の朝、カリフは少女に向かって食料を獲りに行くと伝えて、最後に洞窟からあまり離れてはいけないと注意してから森へと向かった。少女はカリフは笑顔で見送った。
 食料は驚くほどよく採れた。キノコや実は勿論、たまたま冬眠から覚めた小動物さえ簡単に獲れた。カリフは思わぬ収穫だ。これで三日は狩に行かなくても食っていけると喜び、早足で少女のいる洞窟へと戻った。
 洞窟へと戻る途中、カリフは地面の雪に複数の人型の足跡を見つけた。その足跡を見た瞬間、彼は悪い予感がして洞窟へと駆け足で戻っていった。

 カリフは洞窟の入り口付近に、複数の足跡がまばらにあるのを見てゾッとして耳を澄ましたが、中からは何も聞こえない。彼は少女が心配になり声を上げて彼女を呼んだが何も反応がなかった。カリフは少女がいるかどうか確かめるために奥へと向かった。

 広場に着くとカリフは辺りを見回して少女を探した。すると少女の自分を呼ぶ声が聞こえたので彼は慌てて声のする方を向いた。少女は確かにそこにいた。しかしその彼女の周りを囲んで三人の槍を持った屈強な男がこちらに背中を見せて立っていた。男たちはカリフの存在に気づき一斉に振り返る。カリフは彼らの姿を見て胸がつぶれるほど驚いた。彼らは少女と同じネアンデルダール人だったからである。やはり少女と同じように肌が白く獣的な顔をしている。まったく自分を襲った時の少女そっくりだった。
 彼らの突然の登場にカリフは驚いたが、しかし冷静に考えれば全く不思議ではないことだと思った。少女がここに住んでいたことからしてここは彼らの縄張りである可能性が高い。もしかしたら彼らは行方不明になった少女を探してここまで来たのかも知れない。ネアンデルダール人達はカリフに対して一斉に歯を向いて脅した。彼らは自分のことを少女を奪い去った野獣とでもみなしているに違いない。
 カリフは彼らに対して自分に敵意がないことを示すために持っていた物をすべて地面に置いた。しかし彼らはそれでもカリフに向かって槍を突きつけたままだ。その時、少女は突然叫びネアンデルダール人たちの間をぬってカリフの元へと走ってきた。その彼女に対してネアンデルダール人達は槍を突き立て彼女を襲った。カリフは彼らが少女の家族ではないことと、彼らの目的を瞬時に悟った。このネアンデルダール人は少女を捕獲して食おうとしているのだ。同じ人種なのになんと悍ましいことをするのか。カリフは少女を守ろうと地面の槍を手に取りネアンデルダール人たちの前に立ちはだかった。ネアンデルダール人たちは槍を持ったカリフを見て動きを止める。少女は彼らが止まったのを見て素早くカリフの後ろに逃げ込んだ。少女は目の前のカリフを見て安心したように顔を綻ばせ、カリフも少女も向かって微笑みかけた。ネアンデルダール人たちは絶叫して歯をむき出し、よだれを垂らしながら槍を構えこちらへとジリジリ近寄ってくる。自分一人だったら逃げられるだろう。だが彼には愛しき少女がいた。この屈強なネアンデルタール人から少女を連れて逃げる事は不可能だ。彼らに槍を突きつけて追い出すしかない。カリフと少女は壁を背に後退り泉の前で立ち止まった。しかしこの涎を垂らした白い野獣どもは一向に立ち去る気配を見せず、逆に威嚇しながらジリジリとカリフと少女を追い詰めていった。
 このままでは確実に自分は殺されるだろう。そして少女は奴らの餌になってしまう。カリフはとうとう腹を決めて槍を振り回してネアンデルタール人たち元へ飛び込んでいった。絶叫と騒音が鳴り響くなかカリフは無我夢中で槍を振り回した。そのカリフを恐れたのかネアンデルタール人たちは尻込んだ。そしてカリフの槍がネアンデルタール人の一人に当たった。かなり深傷の追わせたのか、男は倒れ地面をもんどり打った。男の絶叫が洞窟内に鳴り響く。カリフはさらに他の男たちに槍を向けようとしたが、槍が急に重くなって動かなくなった。全身の力を使ってもびくりとも動かない。カリフは槍の先を見てゾッとした。槍で深傷を負わせたはずの男が、顳顬から血を噴き出しながら槍を口と両手で掴んでいるのだ。
 突然男の仲間が絶叫して傷ついた仲間の復讐とばかりに、カリフに向かって向かって槍を突き立てた。彼は突然の激痛に叫び、自分の体に突き刺さった槍を見た。腹に突き刺さった槍の刃からドクドクと血が溢れてきた。カリフは痛みに耐えられず絶叫するとそのまま地面に崩れ落ちた。まだ怒りのおさまらぬ男はその彼にトドメをさそうと、刺さった槍を引き抜き、今度は槍をカリフの心臓めがけて突き立てた。
 槍がカリフの心臓を貫く寸前だった。突然少女がカリフを守ろうと男の前に立ちはだかったのだ。少女を止める間もなかった。あまりに一瞬の出来事だった。彼は見ることしか出来なかった。少女がネアンデルダール人に槍で胸を貫かれ動かなくなるのを。

 槍に貫かれた少女の手足が糸が切れたようにガクッと崩れ落ちる。カリフは叫ぶどころか息さえする事が出来なかった。ネアンデルタール人達は少女を仕留めると獣じみた叫びを上げた。少女を仕留めた男は自慢げに獲物を見せびらかして吠えた。カリフに傷を負わされた男も、カリフの槍を捨て傷のことなど忘れたかのように無邪気に喜んだ。それから三人揃ってカリフに向かってバカにしたように吠えた。獲物は自分たちが貰ったと見せつけたいためだろうか。

 既に動かなくなった少女を抱えたネアンデルタール人達が、未だ憮然として立ち上がれないでいるカリフに背を向けて洞窟から立ち去ろうとしている。カリフの目に在りし日の少女が浮かんできた。彼はこれから続くはずだった未来がこの無知な野獣共によって一瞬にして奪われた怒りと悲しみに震え、少女を我が元へ取り戻そうと、目の前に落ちていた槍を手に取り絶叫とともにネアンデルタール人に飛びかかった。怒りのままにカリフは何度も突き刺した。少女の命を奪った男への怒り。彼女と自分の未来を奪った怒り。それらを含めた全ての怒りを槍に込め、男たちが動かなくなってもなお突き刺し続けた。

 そして彼はネアンデルタール人の血まみれの体から少女を救い出した。少女の体は冷たく胸の傷口からはまだ血が溢れている。洗って元の姿に戻そう。カリフは少女を抱き上げて泉へと向かった。
 泉で少女の体を清めながらカリフは何度も少女に謝った。彼女を置いて食料を探しにいったことや、彼女をネアンデルタール人から守れなかったことを。泉の上から漏れる光はもはや動かなくなった少女を悲しいほど美しく照らし出す。その時、突然激しい揺れがあった。カリフは少女を守ろうと彼女を抱きかかえた。地震はおさまるどころか、一層激しくなり、ついに天井が崩れ落ちて岩が泉と広場の間を塞いでしまった。

 揺れがようやく収まりカリフは少女を離して再び彼女を清めた。この泉の水を少女に与え続ければ彼女が生き返ると思ったのだ。地震のせいか泉の天井が先ほどより明るくなっている。カリフは少女に水を捧げながらその光に向かってただ願った。天の光よ少女を我が元に蘇らせ給えと。


 それから幾万年の年月を経ったのだろうか。カリフは今こうしてここに帰ってきた。自分があれからどうなったのかは残念ながら記憶に全くない。ただ自分がアフリカに生まれているということは、おそらく自分は洞窟から救い出されアフリカへと戻ったのだ。そして今ここに再び戻ってきた。ただ少女に会うために。一瞬カリフは氷の中の少女が自分のほうを見た気がした。彼はハッとして少女を凝視した。彼女はあの時のまま少しも変わらない。しかし彼女の眼はあの時のように閉じたままだ。

 その時カリフの肩を何者かが叩いた。カリフはハッとして後ろを振り向いたがそこには後から来たヨーゼフ博士一行の姿があった。
「カリフ君、困るね。勝手に中に入ってもらっちゃ。今回のプロジェクトは細心の注意をもって行わなければならぬというのに。まあ研究者としてミイラをいち早く見たいという君の気持ちはわからんでもないがね。とにかく君も準備を進め給え」
 ヨーゼフ博士はとりあえずカリフに小言を言うと、それから集まったプロジェクトメンバーを前にして言った。
「諸君、見ればわかる通り、今回のこのネアンデルタール人の完全なミイラの発見は世界の考古学史上において最大の発見だ。我々はこのミイラを研究することによって我々人類誕生の謎の究明に大きな一歩を踏み出すのだ。そのためにはまずこのミイラを閉じ込めている氷に穴を開け、肌をサンプルとして持ち帰らなければならない。諸君もミイラごと持ち帰りたいのはやまやまだろうが、このミイラを下手に移動してしまうと、細菌がミイラをたちまちのうちに腐らせてしまう可能性がある。実のところ肌をサンプルとして持ち帰ること自体危険なことなのだが、しかしこれは人類の起源を知るためには絶対に行わなければならないことなのだ。だから諸君、繰り返し言うが作業には慎重細心をもって行い給え」
 ヨーゼフ博士の話が終わると研究員たちは各自準備を始めた。しかしカリフはずっと突っ立ってミイラを見たままだ。そのカリフに向ってメンバーの一人が冗談交じりにこう言った。
「カリフ、ようやく会えた恋人じゃないか。いつまで突っ立ってるんだよ。早く恋人のところに行けよ」
 カリフはその言葉を聞いて驚いて同僚を見たが、しかし彼はすぐに目を離し再びミイラを見はじめた。そんなカリフをよそにヨーゼフ博士をはじめとしたプロジェクトメンバーは着々と作業の準備を進めていった。

 その時、少女を見ていたカリフは閉じているはずの彼女の目が一瞬開いたような気がした。彼はあわてて少女の顔を見た。しかしその目は相変わらず閉じたままだ。さっきの同僚がカリフに向ってミイラのもとへと行こうと言ってきた。彼は少女をもっと間近で見たかった。もしかして生きているとしたら。カリフは少女のもとへとゆっくり近づいてゆく。

 ヨーゼフ博士たちはもう準備を終えていた。後は氷をドリルで開けるだけだった。博士は最後にメンバーに向かって注意を呼びかけた。
「くれぐれも慎重にする様に。決してくしゃみなどするではないぞ」
 その声を合図に技師はドリルを氷に当てて穴を開けようとした時だった。カリフは見たのだ。少女の目が開いたのを。彼はそれに気づくと慌ててヨーゼフたちを止めようとして言った。
「博士、やめましょう!彼女に傷をつけないでください!」
「突然何を言い出すんだ君は!君はこの研究がどれほど重大なのかわかっているのか!君はミイラが傷つくのが心配なのか。だが案ずることなど何もありはしないのだ。我々は肌のサンプルを取ったらすぐに氷を閉じてこの場で厳重に管理するのだ。細菌など入る余地もない。それは何度も説明している筈だ!」
「そうではないのです博士!このミイラの少女は生きています。だから穴なんか開けてしまったら彼女はまた死んでしまいます。お願いです博士!彼女をそっとしてあげてください!」
「カリフ君落ち着きたまえ!君は気候のせいで錯乱しているのだ。おい誰かカリフ君を向こうに連れて行くんだ!」
 ヨーゼフ博士の指示にしたがってメンバーたちがカリフを拘束しようとする。彼は捕まるまいと暴れもがきながら少女を周りの人間から助けようとした。彼はヨーゼフ博士たちがあのネアンデルタール人の男たちそのものに思えてきて彼らを少女から遠ざけなければまた彼女が殺されると思い必死にもがいて抵抗した。

 突然、洞窟内に野獣のような声が鳴り響いた。カリフはハッとして耳を澄ます。この声は間違いなく少女の声だ。今彼の前にいるミイラがまだ生きていた頃に嬉しい事があるとこうやって吠えていたものだ。ヨーゼフ博士たちは一瞬怯んだものの、やがて洞窟の上にいる狼が吠えたのだろうと判断して作業を開始するよう命じた。カリフは抵抗したものの奥へと追いやられ、少女に穴が開けられるのをおめおめと見ているしかなかった。そして再び少女が吠えた。今度は明らかに威嚇の叫びだった。しかし技師は少女の叫びを無視してドリルで氷に穴を開けていった。

 その時カリフはハッキリと見たのだった。氷の中から少女が飛び出してくるのを。少女はヨーゼフたちを蹴散らして真っ直ぐにカリフの元へと駆け寄ってくる。まさか彼女はあのときのように自分を助けるために氷の中から飛び出したのか。少女はカリフを取り押さえていたメンバーに飛びかかった。カリフは少女に向かって叫んだ。
「やめるんだ!その人たちはあのネアンデルタール人じゃない!別の人達なんだ!」
 少女はカリフの叫びを聞いて研究員から身を離した。そして彼女はカリフの胸に飛び込んでいった。

 何万年ぶりかの再会だった。幾万年を経て、世代を超えても魂だけはずっと繋がっていた。二人はただ抱き合ってただ涙を流した。カリフは少女に対して何度もごめんよと謝った。あれからカリフがあれからアフリカに戻り別のホモサピエンスの女性との間に子供が誕生し、そうやって自らのDNAを未来へ繋げていた間、このネアンデルタール人の少女はずっと氷の中で一人で自分を待っていたのだ。何万年も気の遠くなるような歳月の中。
 カリフは抱きしめている少女の肌の感触がいつの間にかなくなっていることに気づいた。彼は思わず腕を振ったが腕は虚しく空を切るだけだった。思わずカリフは少女を見たが、彼は少女を見るなり驚きのあまり絶叫した。

 少女は消えかかっていた。やはり何万年の歳月は重すぎたのか、肉体がこの世界に存在することに耐えられなかったのだ。カリフが世代を超えて少女への思いを貫いたように、彼女もまたカリフを待つために魂だけでずっと彼を待っていた。時を超えてただ愛を伝えるために。

《完》




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