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《長編小説》小幡さんの初恋 第二十八回:思わぬ大失態

 月曜日の朝、金曜日の出来事をいまだ引きずっていた鈴木は重い足取りで事務室に入った。小幡さんはその鈴木に向かって奥の自席からいつものように挨拶をしてきた。鈴木は小幡さんの普段と全く変わらない態度を見て、やはりあの金曜日の夜の出来事は小幡さんが酒に酔いすぎて起こったこと、小幡さんはもうあの出来事を丸々忘れているはずだと思った。

 鈴木はそのまま自分の席へ向かったが、やはり忘れているかどうか不安であった。鈴木は隣の小幡さんに挨拶がてらに金曜日は大丈夫だったかねと話しかけた。すると小幡さんは頭を下げてあの時はすみませんでしたと笑顔で返事を返してきたので、鈴木はやはり小幡さんがあの出来事を忘れていると確信して安心した。そこにパートの楢崎さんが現れて二人に向かって大きな声で尋ねてきた。

「ねえ、お二人さん!あなたたち歓迎会の後で一緒に帰ったってホントなの?」

 事務室の人間は楢崎さんの話に驚き一斉に二人に注目し、鈴木と小幡さんは自分たちを凝視する皆の視線に驚いていたが、楢崎さんはその鈴木たちの反応にニヤニヤしながら今度は鈴木に話しかけてきた。

「鈴木さん、あなた酔っぱらった小幡さんを支えて彼女の家まで送ってあげたんでしょ?歓迎会でお二人はいい雰囲気だったみたいだし、その後お二人はどうしたのかしらねぇ〜!」

 この楢崎さんの揶揄いに、鈴木は小幡さんが金曜日の事を思い出さないか不安になった。酔いの記憶なんていい加減なものである。人は酔った時の言動や行動を簡単に忘れるが、その忘れる事さえ忘れる事がある。だから鈴木は小幡さんが思い出す前に楢崎さんの話を止めようとした。

「ちょっと楢崎さん、私と小幡さんの間には何もありませんよ。だからもうこの話はやめにしましょう」

「でも私万寿子さんから聞いたのよぉ〜。万寿子さん言ってたもの。鈴木さんが歓迎会の時自分を無視してずっと小幡さんとイチャイチャしていたって。私あなたに幻滅したわぁ〜!せっかく誕生日のプレゼントにお花買ってあげたのにこれはどういうことよ!」

 鈴木はこれ以上楢崎さんに喋らせたら小幡さんがあの事を思い出してしまうと恐れ、彼女を別の場所に連れて行こうと思ったが、しかしその前に小幡さんが楢崎さんに注意し始めたのだった。

「楢崎さんいいですか?そういう誤解を生むような事を会社で声高に言うのはやめて下さい。たしかにあの時私は泥酔して鈴木さんにご迷惑をかけましたけどそれだけの話です。決してあなたが口にするような事は何一つしていません。私の事をあれこれ噂するならまだしも、私をわざわざ家まで送ってくれた鈴木さんのあらぬ噂を立てるなんて失礼だと思いませんか?私のいいたいに言いたいのはそれだけです。さぁ、もうすぐ業務開始時間ですよ。おしゃべりはやめて業務の準備を始めてください」

 小幡さんのマジ顔の大説教で流石の楢崎さんも黙りこくってしまった。鈴木は楢崎さんの言葉に全く動揺せず冷静に説教する小幡さんを見て、やはりあの出来事は忘れているのだと安心した。

 やがていつものように鈴木たちはそれぞれの業務に入ったが、心配性の鈴木はそれでも不安になり、まさか思い出しはしていまいかと時々小幡さんをチラ見してしまった。小幡さんはその鈴木の態度に気づき、不思議そうな顔で「鈴木さんどうしたんですか?」と尋ねてきた。鈴木は慌てて別にないと大袈裟に手を振り、すぐに自分のPCに目を向けたが、その時楢崎さんの自分をじっと見つめる視線にかち合ってしまった。鈴木はまずい所を見られたとバツの悪さを感じながら仕事を再開したが、しばらく経つと用がたしたくなってきた。それで彼は小幡さんに声をかけてからトイレへと向かった。

「あ〜ら鈴木さん、ずいぶん長いお手洗いですこと!」

「な、なんですか!いきなりびっくりさせないでくださいよ!」

 鈴木はトイレから出た途端楢崎に声をかけられて気が動転してしまった。彼は楢崎さんの意地の悪い笑みにやはり彼女に先程の自分の行動が丸々見られていた事を悟った。ああ!なんて事だ。よりにもよって一番見られたくない人間に見られてしまった。どうやってこの危機を乗り越えるか。

「ねぇ、鈴木さん。私とあなたの中じゃない?正直に話して?あの夜あなたと小幡さんに何があったのよ」

「楢崎さん、いい加減その話はやめて下さい。私は小幡さんを家まで送ってそこでサヨナラした。それが事実です。朝小幡さんが言った通りですよ」

 すると口元に手を当ててふふふふとゆっくりとわざとらしく笑った。それから彼女は言った。

「ああ〜、そうねぇ。あの子さっきやたら真面目そうな顔で喋ってたわねぇ〜。でもね、鈴木さん。女は自分のやましい事を隠す時はすぐああやってわざと真面目ぶった態度とるのよ。私、女を五十年以上やってるからわかるのよ。ああこの子は絶対何かを隠してるってね。だから鈴木さんいい加減に教えなさいよ。金曜日の夜にあの子と何があったの?誰にも言わないから教えなさいよ」

「な、何もありはしませんよ!仮にあったとしてもお酒で全て忘れてますよ!」

「全て忘れてます?あの、忘れているのってどういう事なの?」

 鈴木は動揺のあまり余計な事を口走ったと慌てて口を閉じた。すると楢崎さんはものすごい勢いで鈴木に問いただしてきた。

「鈴木さんさっき、今忘れているって言ったわよね?じゃあ何かしたかもしれないってことね。あなたたちなんかあったんでしょ?ねぇ、そうなの?思い出しなさいよ!」

「何もありません!失礼!」

 そう言い切ると鈴木は逃げるように早足で事務室へと戻った。事務室に入ると皆が一斉に立ち上がっている所だった。どうやらもう昼食らしい。鈴木は自席に戻るとずっと席を空けていた事を隣の小幡さんに詫びたが、小幡さんはその鈴木に向かって楢崎さんはどこに行ったのか聞いてきた。今日の電話番が楢崎さんだからだ。そこに楢崎さんがひょっこり現れた。彼女はゆっくり自分の席に座ると「今日は私が電話番だからあなたたちは早くお昼行って」と意味深な顔で二人に言った。それから楢崎さんは続けて鈴木に今日はどこで食べるのか聞いてきた。それで鈴木が公園と答えると小幡さんにも同じ事を聞こうとしたが、何故かやめて「あっ、小幡さんはいつもご自宅ね」と呟いた。

 会社の前で小幡さんと別れた鈴木はそれから公園に向かい公園のベンチに座って弁当を食べていた。食べている最中に先程の楢崎さんとの会話を思い出し自分が犯した大失態を悔やんだ。ああ!なんて事を口走ったのだ。あれでは誰でも小幡さんと何かあったと勘繰ってしまうではないか。楢崎さんはあちこちに自分の事を触れ周りあの夜自分と小幡さんとの間に何かあった事が既成事実化されてしまう。その出来事はたしかにある。だが何もなかったのだ。ただ小幡さんが自分に打ち明け話をしただけだ。最後に起こった事は完全な事故だ。ああ!もういい加減忘れる事だと鈴木は自分に言い聞かせたが、しかしいざ忘れようとするとあの夜の小幡さんの話が彼女が流した涙と共に浮かんで来て立ち止まってしまうのであった。ああ!酔って我を失っていたとはいえ、誰にも打ち明けなかった悲しい過去を自分に打ち明けたのだ。それを忘れてよいのか。いや、やはり忘れるべきなのだ。彼女も忘れている。やはりああいう事は聞くべき資格のある人間にこそ打ち明けるべきなのだ。一生を共にする伴侶であるとか……

「鈴木さん、鈴木さん」

 鈴木はその声を聞いて驚いて顔を上げた。そこにはなんと小幡さんがいた。





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