見出し画像

「例えばユルい幸せがだらっと続いたとする」 僕と浅野いにお「ソラニン」

トキです。

「浅野いにおの世界展」に足を運んだきっかけで、久しぶりに読み返した浅野いにお作「ソラニン」と、僕についてを書きたいと思います。

「浅野いにおの世界展」感想はこちら↓
浅野いにおは、エモい。 「浅野いにおの世界展」感想

「ソラニン」
この限りなく不透明なイマをを生きる、僕らの青春狂想曲――
社会人2年目、種田と芽衣子の
楽しくもせつない、小さな恋の物語――
性別・世代を越えて確かな共感と感動を呼ぶ、超話題作!!
(2005年12月5日 発売 YSC「ソラニン」第1集 内容紹介コメントより)

●「ソラニン」と出会った時の話

この作品に出会ったのは、2008年。
大学進学を期に上京したて。高田馬場の小さな本屋でした。

高校時代からバンドとか好きで。でも地元が中途半端に田舎なのと、中途半端に厳しい家柄のせいでライブは行けて年に一度。「大学生になったらライブいっぱい行くぞ!」なんて考えていた頃でした。

この日は父親が様子を見に遊びに来ていて、一緒に夕食を摂って別れたあと、帰る気になれずにふらふらと本屋に立ち寄った。
漫画もそれなりに好きで、この時も漫画買うかーと軽い気持ちだった。
装丁と、試し読みの冊子でこれまた軽い気持ちでほぼジャケ買い。2巻完結という手軽さもあって2巻とも購入。
上京した翌週には繋ぎでティッシュ配りのバイトも始めて、このあと固定のバイト探してライブ行くためにバリバリバイトしてやるってところだったから、漫画2冊位ならあまり考えなく買えてしまったのもあった。
この後4年間お世話になる黄色い電車に乗り込むと、僕は買ったばかりの漫画のページを捲った。

●1Kのマンションに棲んでいる魔物

黄色い電車でページを捲る手が、止まらなかった。
1巻の途中で最寄り駅に着いてしまった。

早く、続きが読みたい。読まなければいけない気がする。

電車が最寄り駅に着くと足早に自宅を目指した。
やや心配症な両親に借りてもらったオートロックの1Kは、今思うと大学生にはちょっと贅沢だった。
後ろ手に施錠すると待ちきれずそのまま続きのページを開いた。

そのまま一気に読み切り、玄関に座り込んだまま泣き腫らした。
漫画を読んであんなに泣いたのは後にも先にも無いように思う。

大学に入学する時、世間知らずの僕は漠然と「同じような夢を持った人たちと勉強出来る」と思っていて、もしかしたら何かすごいことが出来てしまうんじゃないかなんて期待値を上げていて。
入学してみたら、意外とそんなことなくって勝手に出鼻を挫かれて少しいじけていた。
趣味が充実することは上京しただけで確定していたけれど、それ以外の肝心な部分で「どうしていきたいか」を早くも見失っていた。
分からないまま大人になっていった先のイメージと、種田を重ねてしまったんだと思う。
何より赤信号を真っ直ぐに加速していく種田の気持ちがどうしようもなくわかってしまったことが、わかってしまう側面が自分にあることを見せつけられているようでショックだった。
高3の夏、部活で行き詰まった時に1度だけ部室棟の2階から無意識に踏み出してしまった(1階の出っ張りがあって結果小さな擦り傷しか得られなかったけど)があり、その時の自分を思い起こしてしまうのもあった。因みに無意識下で絶対に死なない高さであることはわかっていたので、けして自殺なんかではない。
まぁ、大人になるイメージが全く出来なくて30迄にはこの世に居ないだろうとも思っていたんだけれど。

自分でもあの頃なぜあんなに生き難さを感じていたんだろう。
そう思うけれど、浅野いにお作品、とりわけ「ソラニン」は、その生き難さを肯定してくれているように感じた。
僕は、私は性別ですら定まらないままで、将来も漠然としているままで東京でどうやって大人になっていくんだろう。それでも良いのかもしれない。まだわからないままで良いのかもしれない。だけど抗わなければ。

泣き腫らした目で顔を上げる。開いたドアの先に広がる7畳ほどの部屋は暗く、何かを言いた気にこちらを見つめていた。

●30歳を目前にした僕と、「ソラニン」

「ソラニン」と出会って11年。
今思うのは、僕は種田のようにちゃんと抗えたのかどうか。
ミュージシャンとか、芸人とか、俳優とか、漫画家とか。そういう夢を追いかけてきたような11年ではなかった。こじらせ気味のヲタ大学生は卒業後にブラック企業に就職して、1年ほどで逃げるように退職、数カ月後には今の会社に転職。
その後はやや特殊な業界で、誌面の制作やスチール撮影関係の仕事をしています。
今年の夏には7年目選手で、「若手」ではなくなりました。

大人って、こんな感じだっけ。
そんな風に思うこともあるけれど、あの頃程生き難いと思うことはなくなった。

たとえばユルい幸せがだらっと続いたとする

種田が歌った「ソラニン」のように、今僕を優しく包んでいるユルい幸せはとても居心地が良い。
仕事もそれなりで、働き方改革で以前よりもずっと残業時間が少なくなっているから、嫁さんとの時間も取れる。趣味も適度に充実していて、連絡を取り合える友人も居る。

そんなユルい幸せに、いつか悪い芽が顔を覗かせるかもしれない。
僕は、知っている。あの頃も今も、「何者かになりたい」と思うのは何よりも「僕」なのだ。
それでもその時、今の僕ならその芽をそっと摘んでしまえると思う。
あの日小さな1Kの玄関で泣き崩れた僕はもう居ない。
今居るのは嫁さんや友人たちとの未来を思い、2DKに住まいを移した僕だ。
単純にその頃の繊細さが失われたように思うのと、なによりも嫁さんを芽衣子にしたくないと思えるから。

あの頃の僕にとって「ソラニン」はどこか「死へ向かう物語」だった。
今の僕にとっての「ソラニン」は、「生へ向かう物語」になった。

あの頃の僕へ、
どんなに葛藤や苦悩感が消えなくても、今の僕はこのユルい幸せが何よりも大切です。

この記事が参加している募集

#推薦図書

42,581件

#コンテンツ会議

30,756件

₍ᐢꙬᐢ₎サポートいただけたらめちゃくちゃモチベーションが上がります! 良ければ一緒になにか面白いこととか出来たらうれしいです。