Naoki

愛は沈黙。

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  • ハートの恩寵について

    ハートは恩寵をもたらし、目覚めを助けてくれます。

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    静寂の空間に降りてきた皆様の物語。

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ハートのセッション。

zoom対話(セッション)をしています。 対話の内容は人間の根源的な幸福━━何か特別なことが起こるから幸せだと感じるのではなく、「ただ在ること」こそが幸せだと感じられるように導いていくことを目的としています。人間の生死、幸不幸を超えた境地━━魂が「家に帰る」ことのお手伝いができればと思っています。 「普段、私がnoteで書いていることがよく分からないので質問したい、と言う方」 「思考がうるさくて困っている方や、自我の『わたし』から真我の『わたし』に目覚めたい方」 「相談し

    • 「永遠のいのち」を見つける。

      数年前、皮膚病を患い、歩行が困難なほど苦しんでいた時、ずっとウクレレを弾いていた。 なぜかウクレレを弾きながら歌っている時、痛みも痒みも感じなかった。 そして、歌を歌っている時、ハートが涙を流しているような感覚があった。 音楽を聴くこと、歌を歌うことは自我をハートに溶け去らせる効果がある。 二十代の半ば頃から頑張って何か外側のことをやろうとすると、ストップがかかるようになった。 前回の記事でも書いたけれど、今まさにストップがかかっている。 そして、強制的にストップ

      • 思考が少なくなると起こるプロセスについて。

        昨日、右足に怪我を負った。軽傷だったので、一週間経てば、普通に歩けるようになる予定だけれど、さらに喘息の発作も相まって、強制的に静かにせざるを得なくなった。 そういうわけで、静かに座っていると、突然、悲しみが胸のあたりから湧いてきて、涙が出てきた。 普段、ここで書いているように僕は、感情を抑圧せず、泣くことにした。 しかも、あえて、大げさに泣くことにした。感情をしっかりと感じるために……。 ここ数カ月ほど、このように感情が脈絡もなく突然湧いてくることがある。 悲しみ

        • それは白紙の本を読むようなもの。

          私はよく「身体は本当の自分ではない」ということを書くけれど、それを体験したはじめたのは、18歳の時だった。 その頃、私は多くの大学一年生がそうだったように、将来ことも考えず、ただ毎日を楽しく過ごしていた。 つまり、身体と同一化して、人生に没入していたのだ。 「それ」が起こったのは、演劇サークルの稽古に励んでいた時だ。 大きな教室で二十人くらいの学生たちとダンスの練習をしていたのだけれど、突然、教室全体を眺めている意識になっていた。 特定のどの場所にある、ということは

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          もっと自分に寛容になる。

          昨日、zoomにて「静寂を共有する会」をひらきました。 ひとりの参加者の方から「Naokiさんはお顔が穏やかな感じで落ち着いてますけど、普段怒ったりしないんですか?」と質問をされ、僕は即座に「いえ、怒ります」と答えました。 「たぶん、僕の顔が穏やかに見えるのは感情を否定したり、抑圧しないからなんです」と付け加えました。 「抑圧しない」からと言って、僕は他者に怒りをぶつけるわけではないです。大抵、怒りを他者にぶつけたら、関係に傷がつきます。 ですから、怒りを自分で浄化す

          もっと自分に寛容になる。

          真我と一つだった頃のこと。

          沈黙している時── 思考がなく、言葉が出てこないほどの静寂にひたりきっている時── そのひとは真我と一つです。 真我とはこの世界、この宇宙でただひとりのわたし。 そのたったひとりのわたしは愛そのものであり、平穏、至福、自由、解放です。 自我の抱えている──「こうあるべき」という執着や「何者かにならなくてはいけない」という欲望や観念がまったくない状態──それが真我です。 子供の頃、僕は真我と一つでした。 その頃、すべての子供たちがそうであるように、執着や欲望があり

          真我と一つだった頃のこと。

          あなたは体験者ではなく、ただ観ている意識。

          思考を止めることを目的にして、呼吸法などのテクニックを用いるのは、逆に思考を強めてしまいます。 「思考を静かにしなくちゃ」という思いがある時、思考が出てきたら、「ああ、思考が出てきた……また失敗した」となるはずです。 たしかに思考を静めるためのテクニックはたくさんあります。何千年も前からヨーガの世界では「心の止滅」を目的として行法が行われてきたのです。 ですが、それはテクニックを用いている間だけです。日常生活に戻れば、思考はまた襲い掛かってきます。 思考を止めようとし

          あなたは体験者ではなく、ただ観ている意識。

          目的もなく、褒められることもなく、ただ咲き、ただ散ってゆく。

          あなたが静寂に一度でも恋をしてしまうと──静寂の至福を味わってしまうと、スピリチュアルな意味で我が家に帰るための道を歩きはじめる。 〇 確かに思考はやってくる。 それでも、思考と思考の合間の静寂は確かに在る。 静寂を意識的に感じてみる──。思考が湧いてきても、それを止めようと努力せずに、ただ眺めておく──。 それは鏡を丹念に拭くようなものだ。 鏡が曇ると「ありのままの美しさ」は分からない。 日常生活で湧いてくる想念、「こうあったら良いな」という欲望や執着、「こん

          目的もなく、褒められることもなく、ただ咲き、ただ散ってゆく。

          あるがままの美しさを知る。

          昨日の瞑想会でまず、私たちは身体の調子が悪いところに意識を向ける瞑想をしました。 リラックスした状態で、スキャンするように身体に意識を向けると、身体のどこかの部位が私たちにメッセージを送っていることが分かります。 ですが、大抵の場合、長年の習慣(カルマ的な行動のパターン)がそれを押さえつけてしまっているんです。 瞑想やヨガをやることで身体の感覚に意識を向けることができるようになると、身体の特定の部位──内臓から送られてくるサインを受け取りやすくなります。 ちなみに私は

          あるがままの美しさを知る。

          自分に「イエス!」と言うこと。

          読者の方からご要望がありましたので、明日の14時から瞑想会を開催する運びとなりました。 ところで、私は最近、「瞑想とは何か?」ということを考えています。 そもそもなぜ、ひとは瞑想や呼吸法を試みるのでしょうか? 悟りたいからでしょうか? 生きることがつらいから、思考のない状態をつくりだして、楽になりたい、というひともいます。 理由は色々あると思いますが、結局のところ、その全てが、「今の状態ではない別の何か」、「もっと良い状況に到達する」ための二元的な試みだと思うのです

          自分に「イエス!」と言うこと。

          ほんとうのあなたは永遠の意識。

          何が起ころうと私は自分に起こっていることを観ています。 言い換えると、気づいているのです。 私が苦しみから解放されたのは、「心と体は自分ではない」ということを知ったからです。 私はよく「あなたはぜったいに大丈夫」と言いますが、 これは意識そのものである「本来のあなた」は不死であり、永遠であるからなのです。 今、キーボードで文章を打ち込んでいる──普段、Naokiと呼ばれている男の心の動き(泣いたり、笑ったり)をただ「見つめている」意識が「本当のわたし」なのです。

          ほんとうのあなたは永遠の意識。

          どんなことが起きても、わたしはそれを受け容れる。

          ブッダは6年間、様々な苦行に明け暮れた。結局、どのような修行法も彼を悟りに導くことは無かった。そして、やせ細り、疲れ果てたある日、彼は菩提樹の下で座っている時に、悟りをひらいた。 私が人生で一番熱心にヨガをやっていた時、体重が50キロを切っていた。身長は173cmなのだから異常な数字だ。肉を食べるのを避け、菜食中心、早朝の時間が最適とされていたため、午前6時前に起床して、ヨガのポーズ(アーサナ)、プラーナヤーマ(呼吸法)、チャクラ開発に勤しんでいた。 その結果、普通の生活

          どんなことが起きても、わたしはそれを受け容れる。

          この世界には、まったくの他者は存在していない。全て自分だ。

          ひとと話している時、そのひとの目を見ると、その中に自分がいる、と感じる。そして、鏡なんだな、と思う。 よく「わたしはあなた」、「あなたはわたし」と言う言葉が使われるけれど、相手の目を静かに覗き込んだ時、そこに「わたし」がいることに気づく。全てが「わたし」だと感じる。 **** 以前、ある女性と対話していた時のこと── その女性が「異性と深い関係を築くことができないんです」と話してくれた流れから「結婚したいと思ったことがない」という言葉が私の口から突然こぼれた。 する

          この世界には、まったくの他者は存在していない。全て自分だ。

          全てを諦めて、今ここにくつろぐ。

          私はいっしょに瞑想や対話をされる方に「普段、くつろぐことはできますか?」と問いかける。 そして、すべての方が首を横に振る。 私たちは幼い頃から、ずっと緊張してきた。 家庭や学校、あるいは会社の中で──ずっと身体を緊張させている。 あるいは母親の胎内でうずくまっている時に、母親のストレスの悪影響を受けてしまった可能性だってある。 私がまだ胎児だった頃、私の母親は嫁ぎ先の遺産相続の問題に巻き込まれていた。 母親の苦労を胎内で感じながら緊張していたのではないか、と思う。

          全てを諦めて、今ここにくつろぐ。

          自分をゆるしてあげること。

          karinさんは私のひらいた瞑想会の途中で苦しさに襲われました。 下記の記事でご自身の経験をお書きになっています。 私は上記の記事のコメント欄にこのように書きました。 私は最後に「薄まってゆく」と書きました。言い換えると「癒える」と言っていいかもしれません。 苦しみは見て見ないふりをしたり、紛らわせることはできるかもしれません。 ですが、苦しみはそれを望んでいないんです。 「私がもっと〇〇をしていれば……」 という思考は出来事が引き起こした感情をそのまま感じる機

          自分をゆるしてあげること。

          出し惜しみせず、ただ与えるということ。

          幼い頃から母親に「与えなさい」と言われて育った。両親、そして祖父母は福祉活動をしていて、病床で苦しむ身寄りのない人々のお見舞いに行っていた。 26歳の夏を境に一瞥体験が頻発するようになったのだが、その直前、私は山奥にある神社に100日参りをしていた。 特別願望があったわけではない。ただ「人生が好転しますように」というような祈りをしていた。 90日目ぐらいに、森林を歩いていたら、突然、恰幅の良い白衣を身に纏った老人に「大丈夫かい?」と声をかけられた。 私は何も言い返せな

          出し惜しみせず、ただ与えるということ。