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思考が少なくなると起こるプロセスについて。

昨日、右足に怪我を負った。軽傷だったので、一週間経てば、普通に歩けるようになる予定だけれど、さらに喘息の発作も相まって、強制的に静かにせざるを得なくなった。

そういうわけで、静かに座っていると、突然、悲しみが胸のあたりから湧いてきて、涙が出てきた。

普段、ここで書いているように僕は、感情を抑圧せず、泣くことにした。

しかも、あえて、大げさに泣くことにした。感情をしっかりと感じるために……。

ここ数カ月ほど、このように感情が脈絡もなく突然湧いてくることがある。

悲しみだけではなくて、笑いが止まらなくなったこともあった。

夜、ベッドの上で笑いが起こって、今まで人生を深刻に考えていたことが馬鹿らしくなる、という体験が起こった。

あるいは、怒りが湧いてくることもあった。どうしようもなくイライラして仕方ないので、ウォーキングをしてエネルギーを発散した。

僕に「感情の表出」が起こっている理由は、思考との一体化が終わりを迎えたからだと思う。

思考がつよいと感情を感じることができない。

頭に気が上ってしまうから、身体の感覚を感じられないのだ。

普段、僕はひとりでいるとき、思考がかなり少ない。

こうして文章を書く時、そして人と会話している時はどうしても頭を使うので、思考が忙しくなる。

でも、それ以外の時は腹に意識が落ちて深いくつろぎの中にいる。

思考と一体化しなくなると、それまで押さえつけていた感情が表にあらわれてくるプロセスが起きる。

そして、それをただただ見つめ、感じる。

これの繰り返しをずっと行う。

あまりにも悲しみが出てくるので、自分でも少し驚いてしまった。

何十年にも渡って抑圧してきた感情が解放される大きな転換点を迎えているんだな、と思った。

おそらくまだ感情は出てくるのだと思う。

そして、昨晩、涙が出終わって、スッキリした後、自分がいなくなってしまう恐怖を感じた。

自分が虚空の中に吸い込まれてしまう恐怖……。

「どうしてこんなに恐ろしいんだろう?」

と思った。でもそれは当たり前だ。自我と言うのは、自分のアイデンティティーを必要とする。

そう言った自分自身を定義づけするための根拠となる感情が癒されてしまうと、自分が何者でもなくなって深い沈黙の空間に吸い込まれる感じが起こる。

ひとは怪我や病気になると、それと一体化して、思い通りにならないことの不平不満を言う。

でも思い通りにならない事態が起こるのはまぎれもなく恩寵なのだ。

そして、癒されていない感情が沸き上がると共に感情に対応している病気も起こる。

それは思考と一体化して生きてきた今までの自分が終わりに近づいているサインなのだ。

感情も病気も、やさしく受容する。もちろん、病院で医者に診てもらうという実際的なケアも必要だ。

僕はますます自分という存在が、何者でもない──静寂で透明な自分として、ただ在るようになるのだと言う確固とした実感がある。

僕の個人セッションを受けてくれた女性から、世界が「空」のように感じられるようになりました、というメールを昨日、頂いた。

その方はメールの中で「感情を癒すことも同時にしないといけないのですか?」という鋭い質問をしておられた。

もちろん、僕はそうです、と答えた。

思考と一体化することが終わり、自分の潜在意識の中にねむっている癒されていない感情が浄化されてはじめて、深い静寂や愛の中で生きるようになる。

世界が「空」であると知りながら、自分の身体も同時に癒してゆくことが目覚めて生きるということなのだ。





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