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あなたは体験者ではなく、ただ観ている意識。

思考を止めることを目的にして、呼吸法などのテクニックを用いるのは、逆に思考を強めてしまいます。

「思考を静かにしなくちゃ」という思いがある時、思考が出てきたら、「ああ、思考が出てきた……また失敗した」となるはずです。

たしかに思考を静めるためのテクニックはたくさんあります。何千年も前からヨーガの世界では「心の止滅」を目的として行法が行われてきたのです。

ですが、それはテクニックを用いている間だけです。日常生活に戻れば、思考はまた襲い掛かってきます。

思考を止めようとしているのはまぎれもない思考です。


それはエゴです。

ほんらいのあなたは思考ではありません。身体でもありません。

気づきそのものである透明で、静かな意識です。思考ではなく、こちらに意識を置くのです。

気づきとは観ることです。

ところで、皆さんは普段、「昨日はよく眠れた」、あるいは「眠れなかった」という言葉を使うと思いますが、どうして、それに気づいているのですか?

もし、あなたが身体そのものであるのなら、どれだけ眠れたかどうかなんて分かるはずありません。

あなたが「ぐっすり眠れたかどうか」というのは、本来のあなたが身体の働きに気づいている意識だからこそ分かるのです。

難しいでしょうか?

あるいは、あなたは夢を観ます。それが良い夢であれ、悪い夢であれ、

あなたは夢の中の体験者でしょうか?

いえ、そうではないはずです。ただ夢を観ていただけです。

もし、体験者なのだとしたら、どうしてあなたは目が覚めてから、現実の世界を生きている今でも、その夢のことについて話すことができるのでしょうか?

あなたが夢の体験者であれば、あなたはまだ、夢の中であるその仮の空間の中にいるのではありませんか?


あなたは体験者ではありません。ただ観ていただけです。

夢の中にいるときのことを思い出してください。

あなたは夢の中で昔の恋人とデートしたり、誰かから追いかけられたり、色々なシーンを体験します。

ですが、あなたはそれを観ていただけです。

「どこから観ているの?」という質問には答えられません。

なぜなら、気づいている意識と言うのは、特定の形もなければ、特定の場所に位置しているわけではないからです。

自分の後ろや、ちょっと遠くからかもしれませんし、全体を俯瞰しているように感じるかもしれません。

ですが、明らかにあなたは観ているだけです。だからこそ、あなたは朝、目を覚ましてから、家族にこう言うんです。

「〇〇の夢を観ていたんだよ!」と。

この言葉が真理を物語っています。

目覚めている時の世界でもそれは同じです。

私たちは五感に縛られているので、自分が身体だと信じ込んでいるのです。

ですが、気づきが深まると、世界が夢である、ということが実際的な感覚を通じて分かるようになります。

思考も同じです。

思考がやってきても、ただ観ていれば良いのです。

思考はただやって来て去ってゆくだけです。確かな実体はありません。

ただくつろいで、眺めていれば良いんです。

本来のあなたは思考ではなく、「観ている意識」なんですから。

それができればいつの間にか静寂はやってきます。

「くつろぐ方法が分からない」と言う方や「気づき」が分からないと言う方には個人的なアドバイスも必要ですが、

とにかく、思考に挑みに行っては必ず失敗します。

ほんとうのあなたは舞台の中の登場人物ではないのです。

劇(ドラマ)の中で生きている役者は様々なことを体験します。楽しいことも苦しいことも勝手にやってきて、勝手に去っていきます。

それに抵抗できません。なぜなら、それはすでに「書かれている」からです。

身体はただの役者なのです。

心の自由を得る、ということは「すでに書かれている」ことを書き変えるのではなくて、観照者──ながめる意識としてとどまることです。

思考や出来事を一々判断しないで、ただやって来させればいいのです。

ただ観ていれば良いのです。

すると、少しずつ──自然に、思考が減ってきて、沈黙に包まれます。

呼吸法を使って無理やり思考を止めようとしていた時とは異なる平安がやってきます。

あなたは体験者ではありません。目撃している意識です。





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