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この世界には、まったくの他者は存在していない。全て自分だ。

ひとと話している時、そのひとの目を見ると、その中に自分がいる、と感じる。そして、鏡なんだな、と思う。

よく「わたしはあなた」、「あなたはわたし」と言う言葉が使われるけれど、相手の目を静かに覗き込んだ時、そこに「わたし」がいることに気づく。全てが「わたし」だと感じる。

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以前、ある女性と対話していた時のこと──

その女性が「異性と深い関係を築くことができないんです」と話してくれた流れから「結婚したいと思ったことがない」という言葉が私の口から突然こぼれた。

するとその女性に「それこそがあなたの解決しなくてはいけない問題ではないんですか?」と指摘されて「ドキ!」っとした。

彼女は私が押さえつけてきた感情を教えてくれたのだ。私は結婚をして、子供を持っている同年代の親子連れにどこか抵抗感があった。

別に結婚をしなければいけないというわけではない。私はこれからも結婚をするために積極的な行動を取ることはないだろう、と思う。

ただ、「〇〇なんてしたくない!」と思っている自分の深い部分にふれることによって、自分の抵抗に気づくことができたのだ。

その女性に指摘されて、本当は「もっとひとと関わりたい」と思っている深層意識に気づくことができた。

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あるいは、以前、或る男性の話を聞いていた時のこと。

その方は「いかに心身が弱く自分が配偶者に迷惑をかけているのか」と語りつづけていたのだけれど、やがて、自分の内側に嫌悪感のようなもの芽生えたのだった。

その男性との対話が終わった後、静かにしていると、あることに気づいたのだ。

その男性が自分自身だったということに──。

私自身が自分に対して「心身が弱い自分はダメな人間で、いつも周りに迷惑をかけている」と思っていたからだ。

私たちは対話を通して、互いに自分の握りしめている観念、信念に気づくのだと思う。

鏡になって、互いの深いところにある意識に気づき、互いを癒すのだと思う。

そして、私たちは誰も分離していなかったのだと気づく。みんな一つなんだ、と気づく。

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しかし、起こってくる出来事には、理解できないこともある。いくら心理学的に潜在意識を分析したとしても、解決できないことはあるから。

ただ、自分が普段、「これはダメだ、これは正しい」と判断している思考に気づけば、それで良いのだと思う。

身近なひとが自分にかけてくる言葉━━それも自分の癪に障るような言葉、引っかかる言葉こそが自分の解消されていない精神的な傾向だと気づけるかどうか──

それが目覚めて生きる、ということだ。

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「ひとと関わった方が良いよ」と昔からよく言われるたびに「うるさい!自分はひとりが好きなんだ!」と思っていた。

でも、そうやって、自分にとってうるさい言葉をかけてくる人たちと言うのはもうひとりの自分なのだ。

影として抑圧されてきたもうひとりの自分が自分に向かって「本当はひとと関わりたいんだ」と打ち明けているのだ。

私と対話される方で不安障害で他人と関わるのがこわいとおっしゃる方が勇気を出して連絡を取り、私と話してみると、「人とおしゃべりするのって楽しいですね」という感想を口にしてくれる。そして、私自身も同じことを思っている。

他者の口から出る言葉、振る舞いは私たちに大いなる気づきを与えようとしている。この世界にまったくの他者は存在していない。全て自分なのだ。

世界に映しだされる現象、ひととの出会いが自分の内側の深い部分の投影として、映し出されている。

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