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どんなことが起きても、わたしはそれを受け容れる。

ブッダは6年間、様々な苦行に明け暮れた。結局、どのような修行法も彼を悟りに導くことは無かった。そして、やせ細り、疲れ果てたある日、彼は菩提樹の下で座っている時に、悟りをひらいた。

私が人生で一番熱心にヨガをやっていた時、体重が50キロを切っていた。身長は173cmなのだから異常な数字だ。肉を食べるのを避け、菜食中心、早朝の時間が最適とされていたため、午前6時前に起床して、ヨガのポーズ(アーサナ)、プラーナヤーマ(呼吸法)、チャクラ開発に勤しんでいた。

その結果、普通の生活をしていたのでは経験できないような霊的な体験をした。

でも、私は悟ることができなかった。

私は生きることが苦しいままだった。

ヨガだけではなく、神や仏に祈りを捧げたり、引き寄せの法則、自己啓発にも手を出した。「ポジティブな思考をすればポジティブな現実が引き寄せられる」と信じていた。 

しかし、旧約聖書に出てくるヨブのように皮膚病に苦しんで、ベッドの上で打ちひしがれていた時、ある啓示が私に訪れた。それは

I AM「私は在る」

だった。

I AM THAT I AM「在りて在る」ということだった。

いつのまにか、「私は在る」という感覚が私の内側を満たしていたのだ。

状況が変わったのではない。

病気が改善したわけでも、大金がポストに入っていたわけでもない。

「ただひとりで満ち足りている」という内側の至福、歓喜、愛、そして静寂……。

その感覚で満たされていた時、私は何もしていなかった。

瞑想も、ヨガも呼吸法も何もしていなかった。ただ、全てを諦めて、ただ内側で深く休んでいたのだ。

生意気だけれど、私はブッダの気持ちが分かる。

ブッダはとてもくつろいでいたのだと思う。

「悟りたい」、「苦しみから逃れたい」、「不安や恐怖を克服したい」、「王国を捨て、家族を捨て、人生を台無しにして6年間ずっと修行をしたのに、成し遂げられなかった……」それらの苦悩をブッダは抱えきれなかったのだろう。全てを諦めて、一本の木の下に座った。

「何もかもどうでも良い」

全てを手放した時──身体の力を抜いて、その場で静かに座っていた時、「それ」はやってきたのだ……。

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以前、対話した女性が「瞑想や呼吸法をやっても全然良い気分がやってこないんです」と話していた。私は「それはちがう」と答えた。

ブッダが悟りをひらいた時のことを思ってごらん。彼は全てを捨てたのだ。苦しみから逃れたい、悟りたい、死の恐怖から逃れたい、そう言った「want to」を全部捨てたのだ。

Want (欲しい)

がある時、何をやるにしても失敗するだろう。

Will(意志)

がある時も、何をやっても失敗する。

Beingだけだ。

ただそこにいる時、

ただそこに静かに座っている時、

「在る」ということがどういうことか分かる。

身体の緊張をほどいて、深い静寂の中で、安らいでいる時──

何も期待しないということ──

「私は静かに座っていました。でも何も起こりませんでした」と聞かれる。

そのひとは「何かが起こることを期待して座っていた」のだ。何も起こらなかったということは、何も起こらなかったということだ。

でも、その「何も起こらなかった」ことのなかに真理がある。

悟りは超能力を得ることでも、望む現実を引き寄せることでもない。

「ただ在ることの歓喜」だ。

芭蕉の読んだ俳句が全てを教えてくれる。

ある夏の日、芭蕉は深い静寂の中にいた。

すると、蝉の声が聞こえた。そして、その声が岩にしみ込むように感じた。

その一瞬の間、芭蕉は蝉の声そのものであり、岩そのものでもあったのだ。芭蕉は全てと一つになっていた。静寂の中に自分が溶け去り、身体の境界線が消え、宇宙と一つになっていたのだ。

芭蕉にはWantもWillもなかった。彼にあったのは静かな受容だ。ありのままをただただ受け入れる、ということ。

私は普段、ひとりで静かにくつろいでいるけれど、そこに退屈さはない。あるのは、至福と歓喜だ。

全てが満ち足りていて、「何もないこと」にありがたみすら感じ、感謝の涙を流しそうになる。

苦しみを避けないこと──出来事の選り好みをしないということ。

晴れた日は窓から差しこむ光を楽しみ、雨の日は雨滴の音といっしょにいるということ──

それができるようになれば、あなたは変容する。

「どんなことが起きても、わたしはそれを受け入れる」という明け渡しの姿勢を持つこと。それが本当のアーサナだ。





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