目的もなく、褒められることもなく、ただ咲き、ただ散ってゆく。
あなたが静寂に一度でも恋をしてしまうと──静寂の至福を味わってしまうと、スピリチュアルな意味で我が家に帰るための道を歩きはじめる。
〇
確かに思考はやってくる。
それでも、思考と思考の合間の静寂は確かに在る。
静寂を意識的に感じてみる──。思考が湧いてきても、それを止めようと努力せずに、ただ眺めておく──。
それは鏡を丹念に拭くようなものだ。
鏡が曇ると「ありのままの美しさ」は分からない。
日常生活で湧いてくる想念、「こうあったら良いな」という欲望や執着、「こんなことが起こったらどうしよう?」という恐怖。
それらに優しく気づき、くつろぐことで、静寂に心が溶け去りはじめる。
「静かだな」と感じる時間が増えたら、
それは鏡が綺麗になったということだ。
掃除をちゃんとしたご褒美である。
〇
やがて、「世界はこんなに美しかったんだ!」と知る。今まで、欲望や執着という主観的なイメージで汚れていた世界が、静謐な──透き通った───それでいて、美しく、愛に溢れた世界であることに気づく。
その時、人はハートに安らかさを感じるかもしれないし、あるひとは世界そのものが自分なんだ、と感じるかもしれない。
〇
公園を無心で歩いてごらん──。
足元にアジサイが咲きほこり、モンシロチョウは空からどこからともなくやってくる。
まるで最愛のひとの瞳を見つめるように、アジサイの花を観るとき、「観られているアジサイ」と「観ているわたし」は一つだ。
そこに時間と空間の感覚はない。
永遠の今だけがある──。
静寂というのは、時間の終わりを意味している。
物心つく前の子供には、内側も外側もない。時間の感覚がない。それを蝶だとは思わない。幼い子供たちは言葉や観念から自由だ。
ただ、世界の新鮮さや美しさにハートが揺れ動くばかり──。
ほんとうは、あなたの外側にモンシロチョウがいるわけではない。あなたの中にアジサイやモンシロチョウがいることが分かる。
花や蝶は全体のわたし(I AM)のあらわれとして、目的もなく、褒められることもなく、ただ咲き、時が来れば、ただ散ってゆく──。そして、ただ舞い、ただ羽を休める──。
反対に人間は、野心を持ち、何かを手に入れようと平和から遠ざかり、手に入らない苦しみから、他者に怒りを投影し、争いをつづける。
いったいこれはどういうことなのだろうか……?
どうして人間ばかりがこんなに苦しんでいるのか……?
〇
もっと自然に生きてごらん。
「あるがままの美しさ」である静寂の至福に自我が溶け去った時、あなたは幼い子供に戻る。
あらゆる欲望や執着を捨て、やってくる思考や想念に気づいたら、それらを横に置いてリラックスしてごらん。
ただひとりで満ち足りているという感覚がやってくる。
それまで、外側に漏れでていた神聖なエネルギーが集まってきて、ハートの扉がひらく──。
それは、あなたが家に帰ったということだ。
世間にある何ものもあなたの心を惹かなくなる。
なぜなら、静寂であるハートこそが最大の至福だから。
ハートは感情のことでも、心臓のことでもない。
ハートとは静寂のことだ。
静かにただひとりで満ち足りている時、自然と立ち現れる「私は在る(I AM)」のことだ。
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