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出し惜しみせず、ただ与えるということ。

幼い頃から母親に「与えなさい」と言われて育った。両親、そして祖父母は福祉活動をしていて、病床で苦しむ身寄りのない人々のお見舞いに行っていた。

26歳の夏を境に一瞥体験が頻発するようになったのだが、その直前、私は山奥にある神社に100日参りをしていた。

特別願望があったわけではない。ただ「人生が好転しますように」というような祈りをしていた。

90日目ぐらいに、森林を歩いていたら、突然、恰幅の良い白衣を身に纏った老人に「大丈夫かい?」と声をかけられた。

私は何も言い返せなかった。大丈夫じゃなかったから。生きるのが苦しくて仕方なかったのだ。

その老人は何でもお見通しと言った表情で私の背中をさすってくれて、何やらぶつぶつと真言を唱えてくれた。

私には何が起こっているのかさっぱり分からなかったが、涙が止まらなくなって、気がつくと、その場で号泣していた。

その老人は私に「あなたは他人の感情をもらってしまう体質だから、塩を持ち歩くと良い」と言うようなアドバイスをしてくれたのだけれど、最後に

「あなたは人を助けなさい」と忠告をくれた。

その老人はたぶん、いや、絶対に私の「徳のないこと」を暗に指摘してくれたんだと思う。

でも、その時の私はこう思っていた。「どうしてそんなこと言うんだろう?自分の人生は最悪でお金もなければ仕事もないのに、ひとなんて助けられるわけない!」と。

簡単に言うと、「苦しいわたしを誰か助けて!」モードに浸っていた。もうほんとうにその時は「ください」モードだった。「ください」星人に成り下がっていた。

周りなんて見えていない。「ただ自分だけが助かれば良い」と思っていた。

何か悩みごとを抱えているひとが満員電車で高齢者に席をゆずるとする。そして、「ありがとね」とお礼を言われた瞬間、心がすっきりして、楽になる感覚がある。

その時、そのひとは悩みごとの外に出ている。「苦しんでいる私」の殻から出てゆくのだ。「ひとを助ける」ことで意識の拡大が起こる。自我が小さくなってゆく。

山で出会ったその老人から「ひとを助けなさい」と言われた私は当時、暮らしていた施設でせっせと奉仕作業をすることにした。草刈り、草むしり、溝掃除、などなど目的を持たずにやった。

「カルマ・ヨガ」だ。

「カルマ・ヨガ」と言うのは、行為の結果や報酬を一切期待しないで、目の前のことを淡々とやる、ということ。

そうするとエゴが破壊される。エゴが混乱しはじめる。

エゴは幼い頃からの教育によって報酬の期待がなければ行動をしないようにプログラムされている。宿題をやったら、おやつを食べていいとか、一時間働いたら1000円もらえる、とか。

でも、行為を一切の報酬なしでやる。期待なしでやる。

すると、エゴがどんどん透明になっていく。

普段やっているzoom対話や瞑想会、あと記事の執筆、これらすべて私にとってのヨガなのだ。

目的なしの行為。

全部が目的なしの行動になると、自由になる。そして、起こってくる出来事に影響を受けなくなる。

もう「徳」のことなんて考えていない。

「徳を積んだから良いことが起こるだろう」と思っている間はまだ欲がある。

でも、まずは「徳を積もう。そうしたら良いことが起こるだろう」という意志を持った行動から始めたって良いのだ。そのうちどんどん欲が減ってゆく。

最初は自分のため、

次は他者のために、

最後は一切の目的なし。

なにか自分の出来ることや得意な事を分け与えるということ。

私が対話活動や瞑想会をやり始めたきっかけは、去年の暮れだった。

○○で困っているから今すぐ助けてください、と連絡があった。

最初、私は怖いと思った。

知らない人に困っているから話を聞いてくださいと言われ、しかも内容が内容だっただけに、めんどくさい、関わりたくないと思った。

見過ごすこともできたはずだった。ノーと言うこともできた。でも、私の中の何かがそれを許さなかった。

他人に与え続けてきた私の先祖たちがイエスと言いなさいと言ってるような気がしたのだ。

それから私は今の活動を始めた。苦しいことがあったり、悩み事があったとしても、不思議と相手の話を聞いていると、自分が癒されていると言う感覚が湧いてくる。

自分が損をしてもいいから、まずは与えるということ。

自分を他人に使って頂くと言うこと。

前回の記事で登場された男性が、私にお布施をしてくれた。競争社会で生きることが難しく、収入が毎月、十数万円しかない中で、私に与えて下さった。

私はそのお布施を次の人を助けるために使うことになる。

私は対話を申し込んでくれた方に自分の持っている知識とか時間とか含めてもろもろを全部与えさせて頂く。

出し惜しみをしない、ということ。

たまに「無料でこんなに教えてもらって申し訳ないです」と言われるが、私はそうすることによって、自分自信に誠実でいられる。

奉仕して何になるんだ?綺麗事だろ?と思われるかもしれない。

でも、最終的に奉仕や献身は「恩寵」に関わって来るのだ。

与えれば与えるほど、恩寵が降り注ぐ。

悟りと恩寵は深く関わっている。

インドの聖者であるプンジャジ(パパジ)はこういっている。

質問者 悟りは恩寵の結果なのでしょうか?

パパジ 恩寵? そうだ。ただ恩寵だけだ。いかなる身体的な努力をしても悟りには達せない。もしそうなら、誰もが努力をしてそれを得ていたことだろう。努力なら誰にでもできる。だが、それでは充分ではない。ただ恩寵さえあれば、それで充分なのだ。

デーヴィッド・ゴッドマン. 覚醒の炎―プンジャジの教え . 株式会社ナチュラルスピリット. Kindle 版.


時々、私は探求に疲れた方々にこう言う。

「瞑想や呼吸法を一旦やめてみてください」と。

そして、私はその人たちを混乱させてしまうことになる。

なぜなら努力して、修行すれば悟りが起きて楽になると思っているから。

でも、そうじゃない。恩寵なのだ。

……ただ座りなさい。あなたの真の本性が自然に現れるのを許しなさい。努力は必要ない。なぜなら、努力をしている間、あなたは何かにしがみついているからだ。努力とは依存なのだ。ただとても静かに、深い静寂の内に在りなさい。

著者「同上」、タイトル「同上」、出版社「同上」

「ただ静かにしている」ということが恩寵のふりそそぐ鍵なのだ。

目的無く、ただ静かにすることで空白のスペースが出来て、恩寵がやってくる。

でも「静かにしていること」だけでは足りないのかもしれない、と最近私は思う。

悟りや目覚めには、「徳」も必要なのかもしれない。

ただ静かにして何もせずにいなさい。これが満たされるべき条件だ。もしあなたに徳と幸運があれば、これが起こる状況はおのずと現れるだろう。

.著者「同上」、タイトル「同上」、出版社「同上

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対話と瞑想をしています。↓
naokifloweroftheheart@gmail.com





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