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全てを諦めて、今ここにくつろぐ。
私はいっしょに瞑想や対話をされる方に「普段、くつろぐことはできますか?」と問いかける。
そして、すべての方が首を横に振る。
私たちは幼い頃から、ずっと緊張してきた。
家庭や学校、あるいは会社の中で──ずっと身体を緊張させている。
あるいは母親の胎内でうずくまっている時に、母親のストレスの悪影響を受けてしまった可能性だってある。
私がまだ胎児だった頃、私の母親は嫁ぎ先の遺産相続の問題に巻き込まれていた。
母親の苦労を胎内で感じながら緊張していたのではないか、と思う。
そして地上に誕生した後でさえ、私は場面緘黙を患っており、学校に行っても、会話ができないので、緊張しっぱなしだったのだ。
その緊張は簡単に抜けるわけはない。
さらに私たちは「何かになれ!」と言われて育つ。
私の母は孫である私の姪に活発だからという理由だけで「バレリーナになれるね」などと囁いている。
最も近くで保護してくれる大人から何かになることを期待されているのだ。
あなたがただくつろいでいたとして、誰も褒めてくれはしない。
何十年も我慢して緊張し続けてきたきたひとは自分の身体の感覚が失われている。
今度、静かな場所で、自分の身体の状態を確認してみてごらん。身体に力が入っている部分に気がつくだけでも、違いが起こる。
とは言いつつも、緊張はなくてはならないものだ。それは避けられない。
会社のプレゼンとか、発信活動とか、誰かに自分の思いを伝える時など緊張がかかる場面はある。
それは生きている証だ。だから、緊張は悪いわけではない。
でもずっと緊張している状態は本来、不自然なのだ。
くつろいで、ただそこにいることができるようになると、エネルギーの下降が起こる。
意識が下に──下に落ちてゆくことで、マインド(思考のおしゃべり)から離れて、何もない静かな「無」の感覚が出てくる。
「フー」と息を吐き、顔や肩の力を抜き、静かに座れば良いのだ。
静かにただそこにいることができると、
「ああ、わたしは今ここに、何もせずにいて良いんだ」
とゆるされている感覚が出てくる。
私たちは、
「何もせずにただそこにいる」ということをゆるされていない。
何もしていないと、怠惰、暇人、などと揶揄される。
今まで誰かがあなたに「何もしないで、くつろいでいて良いんだよ」と言ってくれただろうか?
金を稼ぎなさい、結婚しなさい、と言われ「何者かになれない」自分はダメだと自己否定を繰り返し、
さらには、自分をゆるせないから身近にいる「何にもなれない」ひとに「何かになれ!」と抑圧した感情を押し付ける。
でも、そんなこと言ったって、この先の人生が不安なんです!くつろげません!と言う声が聞こえる。
大丈夫。将来は幻想。恐怖も幻想だから。
恐怖と言うのは「気づき」が欠けているから起こるのだ。
映画館のスクリーン上で起こっているドラマに巻き込まれそうになった時、座席に座って観ているあなたが「わたしは映画を観ているんだ」と気づくと恐怖から解放される。
瞑想をするのは、このためだ。瞑想をすると、思考や起こってくる出来事に巻き込まれにくくなる。
しかし、「気づく」だけでは足りないのだ。
映画を観ている「わたしはどこにいるのか?」と問いかける。
意識を内側に引き戻す作業をする。
それが「気づきに気づく」ということ。
「気づきそのもの」はあなたの思考の後ろでずっと見守っている。観照しているのだ。
恐怖は「気づきに気づく」ことと「くつろぎ」のコンビネーションで超えてゆく。
静寂が深まると、「私と言うのはこの身体だ」という感覚が和らいでくる。
以前、いっしょに瞑想をされた女性が「途中で、身体の境界線がなくなったんです」と感想を話してくれた。
緊張がほどけ、ただそこにいることができると、「わたし」という感覚が薄まってゆく。
そこには、全てがありのまま在るという何にも代えがたい喜びがある。
「ああ、幸せだ。何もないのに、全てが在るなぁ」という感じは「緊張している私」がいるとやってこないのだ。
その深いくつろぎの中にいる時、恐怖や不安はない。
過去も未来もない。
ただ「今ここ」という優しさそのものに包まれている。
そして、人生の閉塞した状況を突破する知恵も湧いてくる。
思考には問題を解決できないのだ!
一度、全てのことを諦めてごらん。
静寂に明け渡し、ただくつろいでごらん。
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