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痛みと神散文 - 『麻酔はなぜ効くのか〈痛みの哲学〉』外 須美夫【書評】

手術室の入り口で泣く少年の
手をとりたれば手も泣いてゐる

外 須美夫


麻酔科医で現在ペインクリニックの医師である外 須美夫氏の著者『麻酔はなぜ効くのか〈痛みの哲学〉臨床ノオト』を読んだ。
彼の、まるで医師とは思えない文学的センス、そして麻酔科医という視点からの衝撃的な臨床の記録に大変感銘を受けたため、軽く紹介させてほしい。

本書では麻酔の歴史や麻酔科医の誕生に触れたのち、著書である外氏の長い麻酔科医としての印象的な臨床経験が語られる。随所に彼のセンスを伺える詩や俳句の引用が散見し、それは読者を医療ーいや、それに留まらず、精神世界に、どこか遠い倫理観を問う世界へ、宇宙へと引き込んでゆく。外氏は麻酔科医をこう表現する。 ー 「患者の枕元で、手術の危険を遠ざけ、痛みを遠ざけ、死を遠ざける人」と。

麻酔から醒めぬ確率十万に
一人といへどひとりのあなた

外 須美夫


そもそも、痛みにはただならぬ力がある。それは心と切っても切り離せない。わたし自身、どんなに苦しくても全然泣けない人間なのだが、数年前人体の手術を受けたとき、麻酔が醒めてからその痛みにぼろぼろ泣いた経験が、実際にある。その夜わたしは、痛くて、悲しかった。そのときの自分は、間違いなく独りだった。朝まで泣いた。ナースコールは押せなかった。静かな涙。それが単なる体の痛みでないことは、なんとなく解っていた。

痛みと向き合う文章を、たくさんの人が書いている。そしてどうしてか、それは人間の範囲を超えた「死」や「神」と結び付けられてきた。パスカルは自身の慢性的な痛みによって『神の痛みの神学』を確立し、カントは痛風の痛みを消すために思考に集中したと語り、五木寛之は激しい腰痛により『天命』という言葉を受取る。思想家も医者も、一般人である我々でさえも、人生において何度も痛みを経験し、それが過ぎ去ることを" 祈る" 経験があるだろう。


外氏の麻酔科医としての臨床経験のなかに、エホバの証人(輸血拒否)の患者の耳鼻科手術があった。医師という立場上、彼はもちろん神に対してそういった信仰があるわけではなく、むしろ新興宗教に対しては好ましいとは思えない態度であった。

小さな手術であり、輸血の可能性はないので、全身麻酔を引き受けることになった。手術が始まった。甲状腺の手術で出血も少ないと予想されていたが、思わぬ苦戦を強いられた。なかなか手術が思うように進まない。じわじわと出血が続いた。 医師に焦りの表情が読み取れた。麻酔科医の私にも、不安がよぎった。このまま、患者さんの出血が続いたらどうなるのだろう。 輸血以外に助からない場面になったらどうしたらいいだろう。


これは、医療現場のはずである。だが、ここで語られる場面は果たして医学だろうか。患者には信仰があり、神がいる。神は、輸血を許さない。しかし患者はその神に仕える命を医師に差し出している。
輸血の拒否(※)ー簡単な響きであるが、この状況においてそれはつまり「死」を意味する。死なせるのは?誰?神か?医師か?患者か?

澄み切った目をしたこの患者さんを麻酔をしたまま死なせることができるだろうか。助かる命を見過ごすことができるだろうか。輸血はしない方針だったが、最後は輸血をして助けてしまうのではないだろうか。そうしたら、命は助かっても、この患者さんは神に見放されてしまう。生きている意味をなくしてしまうだろう。患者さんから生涯にわたる悔恨と非難を受けることになるだろう。 私は、そんな窮極の決断を迫られる場面にどうかならないで下さいと、

神様に祈った。


そうして、彼は、医学の範囲を超えて、手術中に、"祈った" のである。このとき、執刀した外科医だってそうだったかもしれない。術前に患者に差し出された宗教新聞を前に" 言葉に詰まった" 彼は。祈った。
医学とは、治療とは何だろうかと、わたしは首をかしげる。手術室にあったのは医学だった、はずだった。神に背けない患者と、祈る医師が、そこにはいた。輸血をして助かったなら、患者はまた、以前のように「生きる」のか?いや、そうではないのだろう。
(※規定について記事最後の注略にて)


また、外氏が引用する短歌に、思わず唸ったものがあった。それも、神を謳ったものだった。
術後、麻酔から醒めた痛み泣く我が子を目の当たりにした歌人、島田修二が云う。

時が消す痛みといへど
「神様を殺す」と言ひしはわれが少年

島田修二歌集(1987年)


息子は痛みを取ってくれと、神様に祈っているが、神様は痛みを消せない。時が経てば痛みは癒えると医師や看護師は言う。寄り添うことしかできない彼は、

神様を殺す。


わたしは感動してしまう。痛みは言葉にしたならば、神さえも殺える。自分の人体でありながら、何処か得体の知れないそれは。

突然、伊坂幸太郎の文章を思い出した。『砂漠』だったか、他の小説だったかは忘れてしまったが、わたしは小学校のときに父の入院する東北大の古い病棟、緑色のベンチでそれを読んでいたので、おそらく伊坂初期のものだと思う。
主人公は年老いた母親を前にして、自身の幼少期に聞いた母親の言葉を思い出している。それは救急車の音がするときのことだった。若かった母がまだ少年であった主人公に言った。

「誰かが痛い痛いって、泣いているんだよ。」


そうか、痛いと泣けるのか。
わたしは23歳で、そのことを自分の身体で証明することになる。日赤の3階のベッドで独り。


わたしは我儘なので、痛いのは嫌だ。
御免である。だから弱いのに、死ぬ勇気だってない。

だけども神さま、聞いてください。
わたし、泣きたいんです。



(※注略)
2008年、日本輸血・細胞治療学会、日本麻酔科学会、日本外科学会、日本小児科学会、日本産婦人科学会は「宗教的輸血拒否に関するガイドライン」を次のように定めた。
「当事者が一八歳以上の場合は、(一)医療者が無輸血の治療を最後まで貫く場合は当事者か ら免責証明書を提出してもらう。(二)医療者は無輸血の治療が難しいと判断した場合は早め に転院を勧告する。当事者が一八歳未満で判断能力がない場合には、基本的には両親(親権者) がたとえ輸血を拒否しても子どもの人権を守るために最終的に必要な場合は輸血をする。」


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