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世阿弥の「花」は、カントの美学を超えている?【PhilosophiArt】

こんにちは。成瀬 凌圓です。
今回は、室町時代の天才能楽師、世阿弥(1363?-1433?)が書き残した奥義書から、能の美学ともいえる「花」という概念を見ていきます。

つい先日まで読んでいたイマヌエル・カントの『判断力批判』の内容とも比較していこうと思います。

『判断力批判』についての記事は下のマガジンからお読みいただけます。


「能楽」と「観阿弥・世阿弥父子」

もともと能は、猿楽という舞台芸能が元になっています。
世阿弥の父である観阿弥は、猿楽座(猿楽役者の集団)のトップとして活動していました。彼は猿楽の芸術性を向上させ、のちに能が室町幕府の保護を受けることに貢献したとされる人物です。

能楽師、演出家、劇作家とさまざまな分野で才能を発揮した観阿弥の子として生まれたのが、今回取り上げる世阿弥になります。

世阿弥の説明として、よくまとめられていたものがあったので紹介します。

役者であり、座の棟梁つまり劇団の指導者であったばかりではなく、世阿弥は自ら能の本を書いたし、また節付け=作曲をし、舞の振り付けをした。そればかりではない。世阿弥は、生涯に約20点に及ぶ「伝書」を書き、能のほとんど全ての局面について理論的な反省をし、それを言説化したのである。現代で云うならば、劇団の統率者でありプロデューサーであり、俳優・作者・演出家・作曲家・振付家である以上に、理論家であった。古今東西の舞台芸術において、偉大な個人は少なくないが、世阿弥のように、舞台芸術の作業のほとんど全ての場面に関わり、しかもそれについての理論的言説を残した人物は他にいない。

渡邊守章・渡辺保『現代における伝統演劇』(放送大学教育振興会,2002年)
4 世阿弥の思考 より

演者として、裏方として、研究者として…
舞台芸術のほとんど全てに携わり、理論研究も行うという幅広すぎる活躍に驚きです。

現在は、世阿弥が能楽論について多くの書物を遺したことが広く知られています。
『風姿花伝』は熟達した能楽師に向けた秘伝書であり、明治・大正までその存在を知る人は数えられるほどでした。

あとで詳しく見ていきますが、『風姿花伝』には、父・観阿弥が作り上げた能楽を後世に残していくという要素もあります。
僕が能について調べ始めたときは、その文献の多さから「能=世阿弥」というイメージが強くありました。

世阿弥は、多くの曲を作った作曲家であり、また理論家として能楽論も残すなど、多くの功績があります。
現代の私たちが見る能に大きな影響を与えていることは間違いありません。

美しさを「花」で表現した『風姿花伝』

『風姿花伝』は世阿弥が38歳のころに、最初に著した能楽論です。
「年来稽古条々(年齢に応じた稽古のしかた)」「物学条々(役に応じた演技の方法)」「神儀云(神事としての能の成り立ち)」など7つの節に分けて書いています。

「年来稽古条々」の項目の中には、「四十四五」「五十有余」があります。
『風姿花伝』を書いたのは30代後半なので、この年代の記述はおそらく世阿弥自身の経験ではなく、父・観阿弥への追慕の情や遺訓、観阿弥の姿を基にした内容だと推測されています。

世阿弥は『風姿花伝』の中で、「花」という言葉を用いて能楽のあるべき姿を具体的に論じていっています。
その考えから浮かび上がる世阿弥の美学を見ていきます。

花は散るからこそ美しく、そこにいのちを見る

「花」という表現は、自然に存在している花から取った比喩です。
なぜ世阿弥は能の美しさを「花」に喩えたのでしょうか。
その理由を次のように書き残しています。

この口伝において、猿楽の芸の「花」を知るために、まずおよそ花の咲くのをみ、それにことよせて、万事を花にたとえ始めた道理を理解せねばならない。そもそも花というものは、あらゆる草木において、四季それぞれの時節に咲くもの故、その咲くべき時に咲いて珍しいから賞賛するのである。猿楽の花も、人の心に珍しいと感じさせるところが、つまり面白いと感じさせるのである。花と、面白いということと、珍しいことと、この三つは同じ意味である。散るからこそ、咲く時分には珍しいのである。能も常ならぬところがまず花であると知るがよい。一定のところに止まらず、他の風体に移るから珍しいのである。

世阿弥 『風姿花伝』(市村宏 全訳注) (講談社学術文庫,2011年)
第七 別紙口伝 より (引用は通釈部分から)

咲き誇る花は散るからこそに美しい、なんて歌詞の曲がありますが、600年以上前から言われているとは思いませんでした。

原文には「時を得て珍しき」という言葉が出てきます。
『風姿花伝』が書かれたこの頃は風流が意識され、いま以上に花鳥風月が重視されていました。世阿弥らにとって四季折々に咲く花は「大自然のいのち」の顕れであり、花が咲くには自然のあらゆる要素(天候、季節の循環、土地の状態など)が関係します。

そして、花は観られるために咲くのではないという特徴も、世阿弥が「花」を喩えにした理由の1つです。
観ている人が美しいと思ってもらえるように、と舞うのではなく、「花」の美しさを自分自身が体現することを世阿弥は求めていると思います。観る人(客体)の存在について世阿弥が言及していないことから、自己と向き合うことに美を見出しているのではないでしょうか。

西洋哲学は、主体と客体の間でどんな作用が起こるかという問いが多く観られます。
カントの『判断力批判』では“趣味判断”という言葉が多く出てきます。客体を認識したとき、それを主体であるわたしたちが快く感じる判断のことを指しています。

しかし世阿弥は、その主体と客体が分離しているとは考えていません。
日本人の哲学者で、西田幾多郎(1870-1945、京都学派の創始者)という人が「主客未分」という言葉で表すものに近いのだろうと思います。
主体と客体という考え方をしないのは、東洋思想全体に言えるのかもしれないですね。

これらのことから、カントが『判断力批判』で主張した美学と世阿弥の「花」は、大きく異なっていると考えました。

主観的美学のカントと、客観的美学の世阿弥

先ほども少し書きましたが、カントは『判断力批判』の中で、主観の快・不快が趣味判断(美的判断の1つ)の根拠になると主張しています。この時に、対象そのものの美については取り上げられていません。
あくまで、私たちはどう判断するかという主観的な判断力によるものだとしています。

一方で世阿弥は、「花」に美しさを見出しています。
花は咲いて散っていく“いのち”を体現していて、その花を観る人もいます。
風流世界では、花は自己そのものでありながら、他者の“いのち”から花を感じ「美しい」と思うこともあります。

世阿弥の美学は、カントの主観的判断に基づいた美学とは違い、間主観的(自己の主観だけでなく、他の主観も影響すること)な美しさを求めているような気がします。

カントも世阿弥も、自然に美を見出している

カントは自然美と芸術美を比較し、自然美のほうが優れているとしています。
芸術には「虚栄心の関心」(周囲に良く思われたい、良い評価を得たいという欲求)があり、形式的合目的性(個人的な欲求や目的を含まない因果関係)から遠ざかるとカントは考えました。

世阿弥も花を比喩として用いている時点で、自然に美しさを見出しています。
能楽師は、“自分の舞を面白いと思ってもらいたい”と思うのではなく、“面白いと感じさせる”のです。
世阿弥も、自然には「虚栄心の関心」が含まれていないことを評価していると捉えられます。

カントの美学と世阿弥の美学には、共通しているように見える部分もあるのです。

美しさが「放射する」…?

後年に世阿弥が著した『花鏡』では、「達人の三位」について記述しています。
『風姿花伝』ではありませんが、その部分が非常に印象的だったので少し書いておきます。

達人の三位は「上手の位」「名人の位」「無心の感をもつ位」の3つがあると世阿弥は言います。
「上手の位」は全てのわざを修得したシテを指します。その上であらゆる執着を断ち切り、身体に湧き上がってくる根源力によって光り輝くような人を「名人の位」と言うようです。
光り輝くような、という比喩が名人に与えられているのに、さらにその上を目指す。世阿弥の果てしない向上心を感じてしまいます。

名人の位の上に位置するのが「無心の感をもつ位」です。
根源から発する力のままに演じ、“面白し”とも思わずに純一無雑に演じるその姿こそ、能の演技の極致だと考えました。

根源から発した力は全身から放射し、その美しさは観客にも伝わっていきます。決して演者の主観にとどまる美ではないということがわかります。

650年以上受け継がれてきた、神秘的な美しさが宿る舞台芸術。
この話を踏まえて能を観ると、能楽師たちの「花」から放射される美をより感じられるような気がします。

参考文献

渡邊守章・渡辺保『現代における伝統演劇』(放送大学教育振興会,2002年)

門脇 佳吉 「世阿弥の超・美学(メタ・エスティカ)」『哲学論集』第25号 (上智大学哲学会,1996年)

世阿弥 『風姿花伝』(市村宏 全訳注) (講談社学術文庫,2011年)

北川忠彦 『世阿弥』 (講談社学術文庫,2019年)

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