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私が1番勇気を出した日

私が人生で1番勇気を振り絞ったのは、コロンビア大学の”Apply”ボタンを押した日でも、国連に足を踏み入れた日でも、起業した日でも、出産した日でもない。

バンクーバーで2年近くの引きこもり期間を経て、ボランティアしに外に出た日だ。

菜海子、カナダに留学(逃亡)する

日本で音大受験も諦め、推薦入試(今考えれば評定平均が3を切っていたので当然)にも失敗し、他にもあり得ないほどどん底だった私は、高3の冬の時点で、かなりの鬱状態にあった。そんな中母がふと口にした、「あんたは留学の方が向いてるんじゃない?」の一言に、何か希望の光を見た気がした。

元々国連に憧れがあった私は、人生をやり直せる気がして、必死に父親を3ヶ月間説得した。すると、2003年のイラク戦争に反対していた父は、加担していないカナダなら許してくれるとのことだった。

そこから、山形から最寄りの留学エージェントを仙台に見つけ、右も左もわからない私たちは、語学学校の入学手続きやビザの手配などを全てやってもらい、晴れて6月末にバンクーバーへと飛び立つことになったのだった。

やっと色々あった嫌なことも忘れられる!私を見下していた同級生やいじめっ子、そして浮気した元カレも見返せる!と思い、鬱々とした気持ちも晴れ始めていた。

「お父さんは留学許すけども、大学を卒業するまで帰ってこないように。」

「もちろん!」

きっと楽しい日々を過ごしいるうちに、4、5年なんてあっという間!そう思っていた。

-雲行きが怪しくなってきたのは、バンクーバー国際空港に降り立った時。当たり前だがアナウンスが全て英語。カスタムすらもどう受け答えすれば良いかわからず、ドギマギしているうちに、別室にまで通されてしまった。

手荷物のクラリネットもくまなくチェックされ、無事に解放されたが、空港で待っていたエージェントは同じ便に乗っていた他の日本人はとっくに集まっていたのでだいぶ痺れを切らしている様子だった。異国の地をバン🚐の中から眺めながら、県立高校で英語がちょっと得意なくらいでは話にならない現実にただ怯えていた。

語学学校はブリティッシュコロンビア大学(UBC)付属のところに所属した。エージェントの話だと、そこで1番上のクラスを修了すれば大学に入学できるとのことだった。TOEFLを受験したこともなく、それどころか英検は3級止まりで、高校の成績も底辺だった私には好条件に見えた。

今でこそ、世界のトップスクールに生徒を入れるのを生業にしているが、正直当時の私に会ったら、呆れてどこからアドバイスしていいかわからないと思う。そのぐらい無知で、留学を甘く見ていた

結局その語学学校では真ん中くらいのレベルからのスタートだったと思う。寝ても覚めても英語しか聞こえない生活で、頭が割れそうなほどガンガンと痛んだ。英語しか勉強の習慣もなかった私はついていくのがとても大変で、結局日本人とつるんでしまっていた。体重も15kgも増えて、地元民を見返すはずが、始める前よりも下に落ちた、そんな気がした。



菜海子、パニックになり引きこもる

この長〜いバス

それから3ヶ月したある日、私はいつも通り通学するためバスを待っていた。すると急に気持ち悪くなり、動悸が止まらなくなった。「私はこのまま吐くの?」と思っていると、だんだんとめまいが襲ってきた。

「倒れそう?いや、死ぬ!」

まるで開かない電話ボックスに汚水が絶え間なく入ってくるような強烈な恐怖感と息苦しさを感じた。葛藤してバスを見送っているうちに、30分ほど経過し、遅刻が確定した。遅刻すると授業に入っていくのが気まずいので、その日は医者に行くと先生にメールし、欠席した。

そして次の日、バス停に向かっている最中に、また気持ち悪くなって足がすくんだ。「また昨日みたいになったらどうしよう。人前で倒れたって英語で説明できない!もう無理だ〜!!」

気がつけばもう学校に行けなくなったどころか、そんな自分になってしまったことが恥ずかしすぎて、外に出れなくなっていた。親に高いお金を出してもらって音大受験の準備をしていたのに才能が無くて諦め、今度は留学でまた大金を出させたのに学校にも通えない…。何回親をガッカリさせたら気が済むのか。

今振り返って精神医学的に言えば、ストレスからパニックを起こし、不安が全般化したことで、アゴラフォビア(広場恐怖症)を発症していた。これらが全て治るまでちょうど20年かかったが、当時は何が起きているか全くわかっておらず、出口の見えないトンネルに入ってしまったようで、ただただ絶望していた。

その時私は食料調達のため、辛うじて1ブロック先のスーパーに行くことはできていた。恐怖心が強く、何度も玄関を出たり入ったりを繰り返し、2時間ほど迷った上、意を決して外に出る。途中でパニックに陥りそうになればまた早足でアパートに戻る。という生活だった。

そんな私が少し恐怖を忘れられる瞬間が、そのスーパーの前で物乞いをしているホームレスの人たちと話す時だった。私の孤独感や、レールから完全に外れてしまった羞恥心、そして自分の期待を毎日裏切り続ける自己嫌悪感などが、彼らと私を「同族」と感じさせたのかもしれない。ホームレスの人達は私を仲間として受け入れてくれて、私の拙い英語を汲み取ってくれた。そして徐々に、私の英会話は上達していくのである。

ビザはどうしていたか。親に語学学校に通っていると嘘をつき、学費を送ってもらい、語学学校に転々と在籍だけしてビザを更新するという荒技を使っていた。



ヒッキー菜海子、ロシア人にフルボッコされる

引きこもりになって2年が経とうとしていた時、ひょんなことから出会ったロシア人の男性と私のアパートが見える距離のカフェでコーヒーを飲むことになった。私は、自分の状況を話し、将来は世界を良くするために国連で活躍したいこと、そしてそのために引きこもりながらもホームレスと英会話しながらコツコツと英語を勉強していることを告げた。

私は一体何を期待していたんだろう。「偉いね。頑張ってるね。」と労って欲しかったのかもしれない。

腕組みした彼は開口一番こう言った。

「何デタラメ言ってんだよ。なんで君は国連に辿り着かないと世界をよくできないと思っているの?そもそも親のスネかじって時間を無駄にしてるのが現実だろ?そんなに人助けしたいんなら、君の“友達”のホームレスをまず助ける方法を考えるべきじゃないか。」

「可哀想な自分像」を破壊され、自分の世界観が間違っているだけでなく、私の停滞した人生の1番の元凶が私自身であると突きつけられた瞬間だった。



ヒッキー菜海子、遂に外の世界へ

今も記憶に残っているほどあの夜は泣いた。夜通し泣いた。「こんな私嫌だ。変わりたい。」涙も枯れた頃、私はネットで以前ホームレスの友人が言っていたホームレスシェルターの存在を思い出し、そこに問い合わせメールを送っていた。

「ぜひ次の火曜日来てください!」とフレンドリーな返信が来たものの、ここ20ヶ月以上半径200m以上外に出たことがない私にとって、歩いて10分先のシェルターの会場である教会まで行くということは至難の業だった。

あれは確か金曜日だったと思う。その日から頭の中で何度もシミュレーションし、「大丈夫。」と自分に言い聞かせた。前日の月曜日にとりあえず中間地点の公園まで歩くことに成功し、あと半分行けそうと確信した。

火曜日当日、私は午後5:30まで教会に集合するように言われていた。

歩いて10分だったが、途中でパニックに襲われる可能性があると思い、4:30には家を出た。到着したら当然、まだ4:45。でも緊張で震えが止まらない。ホームレス以外の人と社交するのは滅多にないし、何より、社会不適合者として見られるのが怖かった。まして人前で気が狂ったら…。パニックの予期不安で右往左往していると中ホールの片隅にアップライトピアノが置いてあった。

これを古くした感じのピアノ🎹

「人が来るまで気を紛らわそう!」そう思った私は暗譜で弾ける好きな曲を適当に弾いていた。しばらくすると人が入って来たので手を止め、挨拶した。

そこのホームレスシェルターは、毎週火曜日午後6時から300人分の夕飯を調理し、7時から10時まで炊き出し、その後希望者にマットレスなどを貸し出して寝る場所を提供するという仕組みだった。5:30からボランティアの集会があり、とりあえず名前だけの自己紹介を終え、与えられた調理の作業に入った。午後7時になり、配膳開始。外にはもう50人ほど並んでいて、大ホールはあっという間にホームレスの人たちで埋め尽くされた。

配膳し始めて30分ほど経ったとき、カーネルサンダースのような見た目の、教会のトップの牧師さんに声をかけられた。「もうここはいいから。」

ボブ神父(のイメージ)

「え?私何かしでかした!?」またここでも、ダメな人間だと言われるのかと思い、カラダが緊張した。おそらくその時、車にでも轢かれる寸前のような形相だったに違いない。

私の驚きっぷりに驚いた牧師さんは、気を取り直して大ホールの壁側にあるピアノを指差した。「さっき、君が綺麗な曲を弾いているのをこっそり聴いていたんだよ。途中でやめてしまって残念だったよ。ぜひここにいるみなさんにも聴かせてあげてくれないか。」



ヒッキー菜海子、外出初日に数百人の前で…?

「こ、ココー!?もう100人は座ってるじゃないか!どうするどうするどうする!」とリアルパニックで事態を把握できていない私を尻目に、牧師さんはピアノまでエスコートした。気づいたら調律されていない、ドとミの鍵盤が欠けた古いピアノの前に座っていた。

それからは正直覚えていない。無我夢中とはこのことだと思う。ひどい動悸と頭痛の中我に返った時には、ホームレスのゲストとボランティアの人たちが総立ちで、「ブラボー!ヒューヒュー!」と私に拍手喝采をくれているところだったのだ。音大を目指していた時は注意されてばかりだったので、正直お世辞だと思った。

後にも先にもあれだけ喜ばれた経験は無い

すると、一人一人私のところに来て、涙ながらに感想を教えてくれた。

「いつも雑踏とクラクションを聴きながら、人が捨てたものを地べたで食べてるのに、今日は温かい食事をテーブルで、しかもこんな素晴らしい演奏を聴きながら食べれて、レストランに来たようだった!」

「僕らのために君以外に一体誰が音楽を奏でてくれるんだい?ありがとう。」

「普通の生活をしていた時を思い出したよ。また働けるように頑張るから、来週も来て弾いてくれるかい?」

こんな、親のお金で引きこもって、失敗ばかりして、みんなに追い越された私にも、価値があるんだ。そう思えた。

「私の人生の目的は、愛されてるって、ここにいていいんだって、世界中の人が思える社会を作る手助けをすることなんだ。」とハッキリ頭の中でエコーした。

それから私はその毎週火曜日のボランティアを2年半続け、コロンビア大学受験の際、牧師さんに推薦状を書いてもらうこととなる。

その日私の引きこもり人生は大きな音を立てて終止符を打った。

そしてあの日の勇気が、私の原点だ。



振り返り


続かなかった習い事や部活をどう隠すか、ギャップイヤーを取るとイメージが悪いか、どう効率的に受験準備をすれば良いかなど、悶々と考えている人は多い。

これだけ遠回りした私からしてみると、「何やっても大丈夫!」としか言えない。人生に無駄なんて本当にないし、失敗でも学びがあれば成功の元となる。私も、音楽を習っていなければ、ピアノを弾くことはできなかったし、日本で受験に失敗していなければ、留学なんて考えなかったし、引きこもってホームレスと友達になっていなければ、このシェルターにも辿り着かなかった。最悪だとその時思っている状況は、良い方向に進むための条件だったりするものだ。

もし今、受験に失敗したり、不登校になったり、クビになったりして絶望している人がいたら、知って欲しいのは、今の社会的ステータスであなたの価値が変わるわけではない。ということだ。いつかこの絶望の経験が他者への思いやりや、誰かの希望に変わる日が来る。自分のペースで、自分だけの人生を描けば良いのだ。

どん底は、あなたが主人公のサクセストーリーの、最高の序章なのだから。


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