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ジョブチェンジ!1 ~教育業界昨今~

 人は変わることを恐れる、というけれど、ぼくは、変わることだとは思っていない。4月から、新しい仕事を始める。

 大学を卒業してからの経歴を軽く振り返っておくと、新卒で、テレビ番組に英語字幕や吹替をつける制作会社に入った。そこで4年間働いたあと、大学院に進学して、文学の研究を2年間。修了後、1年、女子校で国語の教員をした。それで、この4月から、物語の編集の仕事。

 次で3つ目の仕事。大学卒業後、1年以上の長い時間を費やすものとしては、4つ目。いろいろやってきた、のかもしれない。少なくとも、経歴の上では。

 でも、やっていることが変わるたびに自分が変わってきたのか、というと、きっとそうじゃない。ぼくは「いろいろ興味がある」し、何より、ずっと「物語が好き」だった。

 最近よく、これからの時代は「役職」や「肩書」ではなく、「自分」で生きていく時代だ、という文章を目にするし、そういう話を聞く。そういう意味で言うなら、自分は、きっと変わっていないと思う。

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 まあただ当然、状況や環境は変化するわけでして(笑)。どうして仕事を変えるのか? 何故この一年、教育をやってきて、何故これから物語の編集をするのか? という話を書こうと思います。まずは、この一年やってきた、教育について。

■教育の意味

 まず、どうして教育に関わる職(一年、めっちゃ短いけど、、、笑)を選んだかというと、自分の大学時代の体験に遡る。

 ぼくは、入学後すぐに、課程(学科)の選択を間違えた、と思った。そこの募集の売りは、「文理共通」。環境系の課程で、物事を文系・理系双方の視点から見られますよ、と募集要項には書いてあった。ぼくは、まだ将来を決められるほど、物事を知らなかった。そんな状態で、選択肢を狭めたくなくて。だから、そこを選んだ。

 でも、入ってみたら、理系以外の何物でもないところだったんです。今は亡きその課程が、解体後、どこに編入されたかというと、理工学部。ここからも、明らかに、理系の課程だったことが分かる。

 でも、大学の、一般教養の授業は、ものすごくおもしろかった。「日本の近代文学」という授業名で、その実、「近代の心霊・妖怪研究」とでも題したい授業。「文化人類学」「現代社会の読み方」「多元社会の現状」という、文化人類学系の授業。これらの、一般教養の授業で、文学と文化人類学(民俗学)のおもしろさを知って。

 で。こんなにおもしろい学問があることを知っていたら、ぼくは、今の課程を選んでいなかった、と思ったんです。じゃあ、高校生が大学選択をする際に、彼らに多用な選択肢を示すのはだれの役目だ? と。それは、教育の役目でしょう。ぼくが大学選択の際に考えたのは、せいぜい文系か理系か程度。あとは、学力の問題。それじゃあ、ミスマッチに溢れかえるはずだ、と。

 これが、ぼくが、この一年を教育の場に費やすことになった、一つの要因です。要するに、ぼくは、viva多様性、だったわけです。世界には多様な選択肢がある。それらを知らなければ、おもしろい人生など送れるわけない。的な。幸い、教員になる前には、理系の研究も、大学院で文系の研究も、そして一般企業での勤務経験もあった。好き勝手いろいろ喋ったら、少しは多様な世界を伝えられるんじゃないかなー、と思っていたわけです。

 ちなみに、ぼくが多様な世界を知ることになった大きな要因は、大学の一般教養の授業と、そして、小さいころからずっと読み続けていた、物語。物語は、ぼくにとって、多様性の結晶のようなもの。自分を貫く軸のようなものがあるとしたら、それは、物語です。これが、これからの職に、つながる。

 あ、あとは、小さいころ育った南米と、大学時代に一年過ごした、イギリスでしょうか。ぼくが多様性を痛感したのは。異なる文化圏で育った人は、全く違う考え方を持つようになるんだ……。

■教育の現状

〇多様性について

 話が逸れました。多様な世界について、好き勝手喋りたかったぼく。しかし、ぼくが仕事をはじめた学校は、多様性とはかけ離れた場所だった。(一か所に過ぎないので、「教育は」というふうに一般化はできないとは思うけれど、それでもそういう場所は、ぼくが働いていた一か所だけではないことも、また間違いないでしょう。)

 それを象徴的に表しているのは、風紀指導。髪を染めてはいけない理由はなんですか? 化粧をしてはいけない理由はなんですか? なんで、ぼくは、生徒に「靴下を上げろ」なんて注意をしなければならないんですか(笑)。見た目を画一的にすることは、多様性を奪い、画一的な人間を生産することにつながると思っている。それこそ、19世紀に学校が作られた際、工場のラインの一部として機能するような、画一的な部品のような人間を生産することが目的とされたように。

 さらに言うと、教室の構造。高校までの教室は、教壇だけが高くなっていて、教師が、生徒を睥睨するような構造になっている。絶対王政。価値観の押し付け。対して、大学では、後方から前方にかけて、傾斜している場合が多い。学生が、教員を見下ろし、そこから自分で何かを学び取る構造。あくまで主体は学生にあり、主体的に学び取るものによって、多様な学生が生まれる。教室の構造は、かなり象徴的だなー、と思っています。

〇教員の労働環境

 さあ、ここからは、教育現場の労働環境について、キーボードが壊れるくらいの勢いで叩き込んでやりましょう。愚痴ではない。決して。(前述のとおり、一年しか働いていない、一か所しか知らない者が、不遜なことを言う、ということは分かっている。一般化は、できない。でも、決して局所的な問題でも、ない。)

・新人教員の研修

 よく言われる問題ですが、一般企業では、大学卒業後すぐの新入社員を、即、戦力として、大事な取引先に一人で訪問させることはないはず。でも、教員は、入職後早ければ2~3日で、生徒を前に一人で授業を行う。

 さらに、学校によっては、教員がどのような授業を行うのがよいのか、フィードバックや必要な知見が全く得られない場合がある。自分で勉強しようにも、慣れない環境で、毎日の授業をこなすのが精いっぱいで、ブラッシュアップをする余裕はないでしょう。

 ぼくの場合は社会人経験があったので、少し話は異なりますが、初めての社会人生活となった同期が、日に日に病んでいくのを見るのは忍びなかった。。

 教育業界は、もう少し、新人のフォローを徹底したほうが、よい教育につながると思います。

・教育業界の長時間労働問題

 まず。言ってやりたい。授業準備に残業代が発生しない意味が分からない。ん? 授業準備は仕事ではないのか? 帰っていいですか?

 一日8時間労働で終わる仕事量なのか。まず、部活の顧問を持った瞬間に、一日8時間労働の夢は崩れ去る。対して、時間外労働手当がどれほどつくのかは、皆様ご存じのとおりであります。

 そもそも、労働には、賃金という対価が発生する、という概念が無いと思われる。例えば、(ブラックではない)一般企業では、社員にやらせたら(時給換算すると)もったいないからバイトにやらせるような仕事を、当然のように教員が行う。さらに、取っておく必要があるデータを、一度印刷して、別のファイルに再度手入力するような業務。なんの拷問だ? ミスを発生させるための作業か? 業務時間内に終わらなかった場合、残業代はつくのか? 否。

 取り乱しました。

・現状に甘んじる=現状維持の支持

 「みんなそうだ」「仕方がない」という姿勢は、現状に甘んじる姿勢は、消極的にでも、現状維持を支持していることにつながると思っている。当然、それは、自分の生活と照らし合わせて、それでもそこで働くことがありがたいことだという場合もある。それは当然そう。でも、それは、現状維持を支持していることだということを、意識したほうがよいとは、思う。

 長時間労働の問題、賃金の問題は、このままでいいことでは、決して、ない。だから、声は、あげられる人があげなければいけないと思う。例えば、この業界を去る、ぼくなんかが。

■教育について思うこと

 以上、いろいろ述べてきましたが、教育という活動は、変わらず、価値のあるものだと思っています。知人友人には、多く教員をやっている人がいて、教育業界に関わっている人がいて、彼らの話は、おもしろいし、彼らはすごいと思う。大事な人たちだと思う。

 だから、辞めることを、逃げだと言われても、それについては全面的に肯定します。何より、前の記事で書いたように、女子高生は、怖かった。女子高生から、逃げだします。

 そして、教育業界で働いている人たちはおもしろい仕事をしているからこそ、彼らはもっとよい待遇を受けたほうがいいし、仕事以外の時間を持ったほうがいい。このままでは、教育業界に、良い人材が入っていくことが、なくなる。

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 個人的な話に戻る。ぼくは、世界の多様性は、今後、ぼくの軸である、物語をもって追求していくことができると思っている。

 つづく。

 そうだ、これからTwitterでもいろいろつぶやいていく予定です。フォローしていただけると嬉しいです!
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