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女子高生分析 ~現役女子高教員による、女子高生についての考察~

 この記事は、現役女子校教員が、日々自らを脅かす女子高生たちの生態について分析・考察したものである。さらに世の女子高生もののコンテンツの分析にまで手を伸ばし、なぜ女子高生がこんなにも世界で求められているのか、その考察にプロフィールを最大限活かしてみた記事である。

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 女子高生が、怖い。一片の自省もなく、人を非難する絶対性。徒党を組んで人を嘲笑する社会性。非難と嘲笑の的の最たるものである女子校教員として、ぼくは日々神経をすり減らしてきた。

 女子高生が、怖い。無防備に人を頼る無垢さ。一度懐いた相手にはとことん懐いてくる一途さ。無垢で一途な、でも計算高い彼女たちの可愛さに絡めとられ、籠絡されることのないよう、ぼくは日々神経を張り詰めてきた。

 世には女子高生もののコンテンツが溢れている。日常もの。美少女もの。癒し系。また、スクールカーストを描いた社会派。彼女たちの内面に深く踏み込んだ文学系。これらのサブカルや芸術、さらには援助交際よろしくリアルなど、広範な文脈において、「JK」は大いなるブランドと化している。

 人は、女子高生の何に惹かれるのか?女子高生は、なぜこれほどまでに世を席巻しているのか?まずは、日々彼女たちと接してきて得た知見をフル活用し、その実態を分析する。

■女子高生の生態

 授業をして、掃除をして、会話をして、イベントを経て。あらゆる学校生活を通し、以下のようなデータを集めた。

〇「我、天子なり」系データ
傍若無人 恐れを知らない 忖度などは存在しない 嫌なことには嫌と言う 根拠のない自信を持っている 攻撃的

〇「数学はできないけど計算はできます」系データ
自分のポジティブな面には自覚的 ネガティブな面には目をつぶる 許されることを知っている 女子高生の価値を知っている 群れる

〇「太陽かよ」系データ
天真爛漫 一生懸命 懐いたら懐いてくる 無垢無邪気 溢れ出るポジティブエネルギー かわいい

 これらのデータは、当然、彼女たちのごく一部でしかない。学校や教室という「場」の視点から見れば、スクールカーストには触れざるを得ないだろうし、カーストの層の間の関係を見ると、空気を読む・読まない、一部の人の安全や非安全という要素によって浮かび上がる特性もある。また「学校」というシステムの問題点、例えば、一度所属する学校が決まってしまったら、選びなおすのが非常にむつかしいことも、彼女たちの振る舞い・特性を生んでいるはずだ。さらには、思春期の悩みも女子高生の持つ性質だろう。けれども、それらは「女子高生」のデータというよりは、学校や教室の場が人に与える影響や、親との関係や年齢という、異なる文脈についても深く考察する必要があるため、今回は上で挙げたデータをもとに考察を進めたい。

 また、上記のデータは、当然、スクールカーストが上位の生徒たちのものである。物静かで大人しい生徒たちには、また異なる特性が見受けられる。しかしこちらは、女子高生ではない大人しい人とも共通するようなデータのため、列挙はしない。物静かで大人しい生徒たちは、「女学生」的な女子高生という表現がしっくりくるだろうか。

■コンテンツにおける女子高生の描かれ方

 もう一度書くけれど、女子高生もののコンテンツは、世に溢れている。それら全てに目を通すことは不可能だし、ここで論じることに偏りが出ることも承知している。けれども、いくつか具体的なコンテンツを挙げながら考察することで、女子高生もののコンテンツが持つ力の一端を垣間見たい。

 女子高生が扱われているコンテンツにおいて、彼女たちが女子高生であるための重要な要素としてまず挙げられるのは、「制服」だと思う。女子高生が登場する物語なのに、彼女たちが制服を着ていなければ、それは「女子高生もの」ではなくて、思春期の女の子たちの内面を描いた物語、だろう。

 例えば、アニメ『がっこうぐらし!』。人々が次々とゾンビになっていく世界で、女子高生たちが学校に籠城して、サバイバルする物語。学校に立てこもる4人の女子高生たちは、ずっと、制服で行動する。学校であれば、体操服の方が絶対に動きやすく、サバイバルしやすいはずだけれど、彼女たちは制服を脱がない。

 じゃあ、制服は、なぜ重要なのか。一つには、当然、「可愛さ」というポイントがある。当然、男性目線における性的魅力という意味もあるし、女性目線で自分が着たいような可愛さという意味もあるはず。つまり、見た目の問題。女子高生の「見た目」が求められている、ということも、真だとは思う。

 けれど、それだけではない。上で挙げた、実体験に基づく女子高生のデータ。これの文字データだけを見ても、たぶん多くの人が、ああ、確かに、と思ってくれると思う。この女子高生のデータ。つまり、内面。この「内面」こそが、女子高生を女子高生足らしめている要素ではないか?

 だとすると、制服とは何か。それは、そんな「内面」を表す、記号なんじゃないだろうか。漫画『亜人ちゃんは語りたい』に登場する、主要な亜人女子高生3人、小鳥遊ひかり、町京子、日下部雪。当然、みな、制服を着ている。ひかりは天真爛漫で傍若無人、恐れを知らないキャラ。町は基本は「女学生」的、さらに無垢無邪気、一生懸命、懐いたら懐いてくるという性質がある感じ。雪は、嫌なことは嫌と言う、忖度などは存在しない真っすぐキャラ。みんな、「女子高生」の内面の要素を強く持っている。『佐伯さんと、ひとつ屋根の下』というラノベのヒロイン佐伯さんも、傍若無人で我こそは天子、という感じで、主人公を苦しめる。

 女子高生とは、その特徴は、「内面」にある。女子校教員となったぼくは、そう思っている。逆説的に、男性が制服に性的魅力を感じ、女性が可愛さを感じるのは、そんな女子高生の「内面」を表す記号であった「制服」が、独り歩きを始めたからではないか? 人は、女子高生の内面に惹かれる。その内面は、制服を着ていることで表現され、制服は内面を想起させる記号として、大いに機能する。しかし、いつしか、記号は独り歩きを始める。人は、女子高生の内面を表すものであったはずの制服自体に、いつしか惹かれ始めたのである。

■なぜこのような特性を持てるか

 我、天子なり。計算ならまかせて。太陽よろしく輝きます。女子高生が、このようにふるまえるのは、どうしてだろう。女子高生は、いつしか女子大生になり、大人になる。女子大生や、大人の女性の特徴として、上記のものは、機能しない。女子高生は、女子高生でなくなった瞬間に、その性質を失う。なぜ、女子高生は、そんな性質を持っていられたのか?

 それは、きっと、女子高生が、守られているからだ。家庭から。学校から。女子高生は、食べるために稼がなくてよい(であろう人が多い)。親からの守護があるから。社会的な地位を、自ら獲得する必要はない。学校によって、女子高生という地位を与えられているから。だからこそ、傍若無人に振る舞えるし、忖度をする必要はない。自分のポジティブな面を最大限利用できるし、ネガティブな面には目をつぶっても許されることを知っている。何も心配せず、一生懸命でいられ、純粋無垢でいられる。

 元女子高生から、女子高生向けの雑誌では、「人とは違うこと」を追求する記事が多く、女子大生以上向けの雑誌では、「基本を抑える」=「人と同じこと」を追求する記事が多いように思う、という話を聞いた。女子高生は、人が可愛いと言わないようなものを可愛いと言い、ゲテモノストラップをバッグにぶら下げる。女子大生の写真は、どれも、非常に似通ったものになる。これも、女子高生は強く守られているから、人と違っても傷を負わない。女子大生はその守護が薄いため、社会から外れると傷を負う。それが、理由なんじゃないだろうか。

■なぜ人は、女子高生に惹かれるのか

 ここまでの議論を一度整理しておく。

 女子高生は、天子であり計算が得意で、太陽のよう。彼女たちを女子高生として表現しているのは制服であるが、それは女子高生であるということの記号であり、記号が表す彼女たちの内面、それが彼女たちを女子高生足らしめているものであり、内面こそが重要。女子高生がそんな内面を持てるのは、彼女たちが守られているから。

 じゃあ。人が、女子高生に惹かれるのは、なぜか。

 それは、自分たちが持っていないものを、彼女たちが持っているから、だと思う。

 女子高生は、守られ、認められることで、自分で自分を受け入れている。自分を受け入れることで、恐れるものはなくなる。低い他己評価も、気にならなくなる。

 一方、大人の女性(男性も)は、過度の他己評価にさらされている。自分を守ってくれるものがなくなると、自分で自分を受け入れることができなくなる。評価に怯え、自己評価は機能しない。

 そうして、人は、女子高生が持っているものを失っていく。嫌なことは嫌と言える。忖度の必要なんてない。そんな社会人が、どれくらいいるだろう。自分のポジティブな面を自覚的に明るく使えて、ネガティブな面に目を向けなくていい。そんなことをしていたら、大人としてどうか。かつては自分も一生懸命で、無垢無邪気だったはずなのに。

 その憧れが、人を、女子高生もののコンテンツに走らせるのではないか。

 ぼくも、女子校で働いていて、直接対峙することで非常に苦しめられながら、でも一歩引いてみてみると、その純粋さ、動じなさ、自己確信・自己絶対性とでもいうような性質に、憧れ、惹きつけられた。対するぼくは、学校からの理念の押し付け、「べき」論を、はねつけることもできないでいた。自分を、隠していた。だからこそ、自己を剥き出しの、そして自己を隠す人に対して攻撃的な女子高生を恐れ、同時に憧れた。

 きっと、女子高生もののコンテンツのヒット作は、これからも出続けると思う。彼女たちの性質に惹きつけられる人がいる限り。社会が、人を、素直でいさせてくれない限り。人が、自分を受け入れられず、Let it be, let it go. の状態ではいられない社会である限り。

 コンテンツについて、最後に加えて少し分析してみたい。

 天真爛漫で素直な女子高生を描いたコンテンツは、「かわいい系」の漫画やアニメ、ラノベになるんだろう。恐れを知らない、傍若無人な女子高生は、「おもしろい系」になる。これらが、美少女系、日常系のエンタメとなって、人の憧れを掻き立てるんだと思う。

 一方、今回分析の対象から外した、スクールカーストや、教室内での空気の読みあい、さらに女子高生の不安な内面を扱ったコンテンツなんかは、社会派や文学系の物語になる。

 もう一つ。女子高生もののエンタメの中に、女子高生を脅かすものがある。前述『がっこうぐらし!』もそうだし、『エデンの檻』という、修学旅行に向かう飛行機が無人島に不時着してサバイバルを行うという物語もそうだ(これは「高校生」であって、女子高生に限らないけれども)。これは、どう考えればいいか。

 一つには、天真爛漫に振る舞う女子高生への、大人たちの妬みがあるんだろう。危険な世界は、大人たちの社会のメタファー。あなたたちも、そのうち、こんなところに放り込まれるんだ、という卑屈な心理。

 もう一つは、きっと、大人が、自分たちの置かれた状況を生き抜くためのヒント、答えを求めているんじゃないか。あの、女子高生のエネルギーを、この社会に、守ってくれるものが何もない場に放り込むと、どうなるか。自分たちは、どうすれば憧れの女子高生のように生きられるのか。

 社会は、女子高生を、求めている。

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