境界性パーソナリティ障害の主立った特徴の一つとして、よく「試し行為」が挙げられます。
本来、2〜5歳ぐらいの幼児が、自分が受け容れられるのかを確かめる為に、わざと困らせたり、嫌がらせをしたりする愛情確認の行為です。
とても幼い確認の方法です。
幼い方法であっても、
障害の診断が有っても無くても、立派な大人に成長していても「試し行為」をする人は沢山います。
「試し行為」の原因は、その人の抱える「無価値感」です。
恋人から「愛してる」と言われても、他の異性と仲良くして見せて、恋人を試す。
友人のコンプレックスを知っていながら、コンプレックスを刺激する様なことを言う。
宿題を忘れて先生から叱られたのに、次の日も宿題を忘れる。
それは、意識に登ることは少なくて、無意識に、その行為に及ぶことが殆どです。
正確には、意識と無意識の狭間で起こる、と言った方が良いかも知れません。
こんなことをしたら、嫌われるかも知れない、
こんなことを言ったら、この人は自分を見捨てるかも知れない、
そんな思いがチラッと頭をかすめながら、そうすることを止められない、といった感じでしょうか。
その、チラッと頭をかすめる思い、は気づく様な気がつかない様な感覚だから、意識と無意識の狭間の出来事なのです。
「試し行為」は、心理学で言う「投影」とも密接に絡んでいます。
「投影」とは、自分の認め難い感情を、他者に帰属させる心の動きです。
自分がそう思っているのに、相手がそう思っている、と感じるという事です。
この人から嫌われるかも知れない、と思ったら、この人は私を嫌っているに違い無い、と変換されます。
そして相手が嫌がりそうな事をします。
相手は嫌がり、その人を嫌いになります。
するとその人は「ほら、やっぱり嫌いなんだ」と思うのです。
「試し行為」のアレもコレも、原因はその人が抱える無価値感です。
その人自身が、自分は無価値だ、と感じています。
それは、認め難い感情です。
認め難いから、自分は無価値だなんて感じていない、という事にします。
恋人が、友人が、先生が私を無価値だ、と思っているに違いない、
ここまでが「投影」です。
恋人は無価値な自分から去るに違い無い、
友人は無価値な自分を嫌うに違い無い、
先生は無価値な自分を叱るに違い無い、
確かめてやる、と「試し行為」に及びます。
見捨てられそうな事、
嫌われそうな事、
叱られそうな事、をしたり言ったりするのですから、そうなります。
すると、「ほら見たことか」と辻褄が合うのです。
おかしな納得に思えるかも知れませんが、こうして辻褄が合うことで、
自分の中の、どうしても認め難い感情「無価値感」を、自分は感じていないことに出来るのです。
それ程、見たくない、触れたくない、感じたくないのが、自分には価値が無い、という感情「無価値感」です。
では、「試し行為」の原因でもある無価値感は、その人の心にどうして植え付けられてしまったのでしょうか。
余程のレアケースを除いては、植え付けられた時期は幼少期、場所はその人が育った家庭です。
子供の心から健やかさ、伸びやかさが失われたのなら、その根は親の心に繋がっています。
その子の親は、心に無価値感を抱えています。
先に触れた様に、無価値感は何が何でも触れたくない感情です。
親は子供を無価値感から目を背ける為の道具にします。
尊重されることも、肯定的に扱われることも無く育ち、
子供は自分は無価値だと思い込むのです。
恋人同士、友人同士、先生と生徒と、
親子という関係性の違いは、何をしても幼い子供は親から離れられない、という事です。
親子間でも「試し行為」はあります。
親は無価値感に苛まれていますから試します。
しかし、それ以前に、親は子供を一個の人間として認めることが出来ず、親の従属物、所有物として見做します。
だから、「試し行為」の有無の前に、子供は親のサンドバッグになってしまいます。
子供は親の愛すればこそ、という主張と、余りにも辛い現実とのギャップに混乱し、人を信頼することが出来なくなります。
人の対人関係の雛形は、幼少期の親子関係です。
親に疑いを持たざるを得なかった人の、対人関係の雛形が猜疑心で出来ていても仕方がないと思うのです。
その猜疑心で出来た雛形を持って、人生を歩めば、恋人や友人、先生、あらゆる人を試すのは必然とも言えます。
人生には良いも悪いも無いと言いますが、疑い、試し、離れる対人関係は、とても苦しいと思うのです。
その原因は抱える無価値感であり、
無価値感は育った環境によって植え付けられた、単なる思い込みに過ぎません。
思い込みは払うことが出来ます。
気付いたら、払えます。
愛を試していないか、
それが気づきのヒントになるかも知れません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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