私は毒親でしょうか?
「私は毒親でしょうか?」
そう尋ねるお母さんは少なくありません。
私は「毒親」と言う言葉は理由があって極力使わないのですが、
問い掛ける、苦しむお母さんは、大半が冒頭に記した様に「毒親でしょうか?」と尋ねられるので、今回はそのまま使いました。
何故、その言葉を使わないのか、は、別記事でお話ししようと思っています。
結論から言いますと、本当の意味での毒親であれば、自分は子供にとって良くない母親なのではないか?と言う疑問を持ちません。
だから、思い悩む時点で、そのお母さんは毒親ではありません。
自分は子供にとって、という視点に立つことが出来ない親が、毒親、です。
子供にとって、という視点に立つということは、子供の人格を認めている、ということです。
つまり、その子を一人の人間として尊重している、ということです。
毒親は、子供を尊重することが出来ず、子供を所有します。
自分が、産んであげた、
自分が、育ててあげている、
という感覚です。
私がいて、この子がいるのでは無く、
私のこの子、です。
つまり、自分のもの、と感じています。
毒親も、幼い頃、自分の存在を否定される環境で育っています。
自分の存在を尊重された経験がありません。
だから、尊重という言葉も、その意味も当然知っていますが、
実体験が無いので、それは、言葉の理解、に留まり、
尊重するってこんな感じ、
尊重されるってこんな心持ち、
ということが、分からないのです。
そんな環境に育った毒親は、自分には何の価値も無い、という強烈な思い込みを心の内側にべったりと貼り付けています。
そしてその思い込みから目を逸らすことが、生きる目的になってしまっています。
無価値感に苛まれるとき人は、他者からの承認や、賞賛や、羨望の眼差しを欲します。
自分自身の自己評価は、無価値、である訳ですから、その地に落ちた自分の価値を、他者の承認、賞賛、羨望の眼差しによって持ち上げるのです。
しかし、世の中に、自分を手放しで褒め称える人など、そうは見つかりません。
褒めてくれる人が見つからなければ、今度は地に落ちた自己評価が、上がった様に感じられる別の方法を探します。
その方法は、自分よりも弱い者を貶めることで、相対的に自分の価値が上がった様に感じる、というものです。
勿論、他者を貶めたところで自分の価値が上がることなど無いのですが、
自分よりも劣った存在は、その場限りではあっても、自分の価値が上がった様な錯覚を起こさせてくれるのです。
この、他者を貶めて、自分の価値が上がった様な錯覚を貪る段階は、
他者に承認、賞賛、羨望の眼差しを求めて、得られなかった先の段階と言えますので、
心の在り様は、賞賛を求める段階よりも、更に苦しい状態なのです。
そんな苦しい心を引きずって人生を歩んでいる人が、親になった時、
自分の苦しみを全て肩代わりしてくれる存在が、手に入る、訳です。
文字通り、手に入れた、感覚です。
幼い子供は、親を慕います。
子供は無力であるが故に、親を慕い尽くすことで生きる仕組みになっています。
先ず、何があっても自分を慕う子供は、承認欲求を満たしてくれます。
もっと承認や賞賛が欲しければ、子供の尻を叩きます。
もっと賢く、もっと明るく、もっと強くあれ、親孝行であれ、ききわけ良くあれ、と子供の尻を叩きます。
世間に、優れた子の親、として褒められる為、羨まれる為、に尻を叩きます。
世間に認められたくて子供の尻を叩きますが、その甲斐あって仮に、子供が優れた結果を世間に知らしめたなら、
自分の無価値感が騒ぎ出します。
子供に嫉妬し、くさします。
お前のここが悪い、あそこが劣っている、とくさします。
子供に優れた存在である事を求めるのは、優れた子のお母さん、と思われたいからです。
子供をくさすのは、自分が一番でいたいからです。
つまり子供は、自分の無価値な思い込みから目を逸らす為の、道具、です。
自分がお腹を痛めて産んで、あげた、
自分が苦労して育てて、あげた、
のですから、自分の道具、です。
自分の物、なのです。
道具には、重宝、することはあっても、尊重、することはありません。
親は、自分は子供を尊重していると思い込んでいます。
自分は子供に与えていると思っています。
自分は子供を愛していると信じています。
所有し、奪い、貶めていることに気がつくことは、ほとんどありません。
したがって、子供から見て私はどんな親だろうか?という視点に立つことが出来ません。
親子が十組在れば、親子関係は十通りです。
子育てに正解は無く、
失敗しない親など在りません。
時に踏み越え、時に届かず、時にぶつかり、時に転びます。
しかし、
私は子供から見てどんな親だろうか?
毒親ではないだろうか?
という視点に立った時点で、
毒親ではありません。
子の視点に立とうとする母は、
子を想い、
子を守りながら、
子に教えられる、
そんな素敵なお母さんだと、
私は思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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