悲しみの湖底と思い出の欠片の浮力
いつも楽しそうな人っていますよね。
いつも面白くなさそうな人もいます。
楽しそうに見える人にも、悲しいこともあるし、腹が立つこともあれば、悩みだって、きっとあります。
いつも楽しそうな人にも、いつも面白くなさそうな人にも、
その人が望む出来事も、望まない出来事も、同じ様に起こります。
ある人には望ましい出来事ばかりが起きて、ある人には不幸ばかりが寄って来ることは、実はそうそう無いことだと思うのです。
ならば、どうして世の中には楽し気な人と、辛そうな人が存在するのでしょうか。
そこには、出来事をどう捉えるか、に対照的とも言える違いが有る様に思います。
たとえば、ペットを失ったとします。
長らく家族同然に一緒に過ごしたペットを失ったならば、いつも楽し気な人も、辛そうな人も、同じ様に悲しむでしょう。
そんなことが有れば、悲しみに沈むことは至って自然な在り方です。
ひとしきり悲しみに沈んだら、いつも楽し気な人は、ペットが与えてくれた思い出を幸せ色のメガネで見ます。
そしてペットがくれた温かさ、愛情、優しさ、その全部をかき集めます。
その人がいつも楽し気なのは、幸せ色のメガネを掛けて見つけたポジティブの欠片を拾い集める癖が出来ているから、です。
悲しみの湖に沈んでも、その人は湖の底でポジティブの欠片を拾い集めます。
ペットと添い寝した思い出の欠片、
落ち込んだ時、寄り添ってくれた思い出の欠片、
一緒に駆けて遊んだ思い出の欠片、
千切れんばかりに振られる尻尾、
大好きだよと語りかける瞳、
全部拾い集めます。
ポジティブの欠片には、浮力があります。
一つひとつは小さな欠片でも、かき集めたらその人は湖底から浮かび上がります。
やがて水面に浮かび上がったその人は、楽し気な人に戻っています。
それは失くしたペットを忘れたのではありません。
喪失を受け入れて、前を向いたのです。
その人が出来事のポジティブな面を探すのは、生まれた時からポジティブな景色を見て、育ったから、です。
必要充分な愛情を注がれ、尊重され、肯定的に扱われる環境に恵まれたから、
出来事をポジティブに捉えるクセがついています。
冷たい湖底よりも、水面に浮かんで眺める景色の方が居心地がいいのです。
いつも辛そうな人は、生まれた時から、尊重される事は無く、否定的に扱われて育ちました。
そんな環境に育ったから尚の事、ペットとの思い出は大切です。
そのペットを失って、悲しみの湖の底に沈みます。
楽し気な人と同じ様に、思い出を集めます。
が、その人は思い出を悲しみ色のメガネで見てしまいます。
添い寝したのにもう二度と出来ない、もう寄り添ってもくれない、一緒に遊べない、尻尾を振っても、見つめてもくれない、
その人は思い出の欠片をネガティブ色に染め上げて、かき集めます。
ネガティブの欠片は鉛の様に重いのです。
重たいネガティブの欠片を集めたその人は、湖底にうずくまります。
その人は、生まれた時からネガティブな景色だけを見て育ちました。
ポジティブな景色を見たことが有りません。
水面に注ぐ陽光は眩しすぎるのです。
その人は、ネガティブの欠片をかき集め、慣れ親しんだネガティブな景色を選びます。
陽光が降り注ぐ湖面よりも、冷たくて暗い湖底の方が居心地が良いのです。
なぜなら、慣れ親しんだ場所だから、です。
初めての場所は怖いから、です。
かつて尊重されず、否定的な扱いを受けざるを得ない環境に育った人は、
ネガティブな景色しか知らないのですから、そこに居ることが苦しくても、慣れ親しんだネガティブを選ぶしか無いのかも知れません。
しかし、理由はどうであれ、ポジティブな世界を見るか、ネガティブな世界に身を置くかを 選んでいる のはその人自身です。
その人が何を見て、どんな世界に身を置いて、どんな感情を感じるか、の選択権はその人自身にあるのです。
ポジティブもネガティブも選ぶのは、その人です。
たとえ其処に身を置く事が苦しくても、人が慣れ親しんだ場所を離れるのは容易ではありません。
ましてや、選択権が有りながら、選択出来るという事を知らないのですから尚更です。
先ず知って、そして望むならば、
見る景色は一変します。
選択権は自分にある、のですから。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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