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「暖かな傍観者」が必要な理由

いつも「生きづらさ」を抱えた人に、記事を通して語りかけています。

今回は、「生きづらさ」を抱えていない人、自分の人生を、自分が主人公として歩んでいる人に、

「生きづらさ」とは、どんなものなのか、をお伝えしたいと考えました。

アメリカで生まれ育った人が、英語を話し、アメリカの常識、慣習、ものの見方、考え方、感じ方で生き、

日本で生まれ育てば、日本語を話し、日本人としての生き方で人生を歩く様に、

「生きづらさ」を抱える人と、そうでない人の間には、隔たりが有ると思っています。

安易に人にレッテルを貼ったり、区別する事は避けるべき、と思っていますが、

こと、「生きづらさ」を手放すという事を考える時、
どうしても、そこに違いが有る事に目を向ける必要が有ると思うのです。

「生きづらさ」を手放す事に取り組む人が在ったなら、
その周囲に少しでも、実感は無くても知識としての理解有る人が居てくれたなら、

取り組む人の助けになる、と思っての今回です。


「生きづらさ」の原因は、余程のレアケースを除いては、
幼少期の生育環境に有る、と言っていいと思っています。

人は自分が生まれ落ちる環境を選ぶ事が出来ません。

子供は親を選んで生まれて来る、という見方が有る事も承知していますし、

その捉え方を否定するものでは決してありませんが、

ここではお話ししたい趣旨から離れてしまいますので、「生まれる環境は選べない」という前提に立ったお話しです。

自分を肯定的に受け容れられ、尊重される環境に恵まれる人も居れば、
生まれた時から、否定的に扱われ、責められる日常を過ごす人も居ます。

肯定的に受け容れられる人にとっては、尊重される事が日常で、
否定的に扱われる人は、責め苛まれる事が当たり前なのです。

尊重される事が日常であれば、その人は自然と「自分には価値が有る」という感じ方が芽生え、育まれます。

それは、自分という存在に対する安心感であり、自尊の意識です。

安心感を手にする経緯は、大雑把に言うと、この様な事ですが、

この人にとっては安心感が有る事は、当たり前の事です。

英語圏で育った人が英語を話す様に、ごく当たり前な事なのです。


責め苛まれる事が当たり前の環境下で育つと、その人は「自分には価値が無い」という感じ方しか出来なくなります。

価値が無い人など存在しないのですが、責められ、無価値な扱いをされるうちに、その人は心にべったりと 無価値である という思い込みを貼り付けてしまいます。

この人は、無価値感に巻かれている状態しか知らないので、それは当たり前の事です。

日本人が日本語を話すぐらい、当たり前に「自分には価値が無い」と思っています。


安心感を得た人は、自分が育った肯定的に受け容れられる世界しか体験した事が無く、

無価値感に苛まれる人は、否定的に扱われ、責め苛まれる環境にしか身を置いた事が無い訳です。

この自分に対する安心感の有る無しで隔たった両者は、

実体験として、実感を持って、隔たりの向う側の存在に、完全に共感する事は難しいと思います。

しかし、実体験が無くとも、隔たった両者であっても、先ずは知識や情報として、お互いの違いや、

その違いが出来上がる成り立ちに、目を向ける事は大切な様に思います。


私は多様性を認める事は、個で見れば情緒の成熟であり、
社会全体であれば、進化であると思っています。

立場や成り立ちに埋められない違いが有る者同士が、

埋まらない隔たりを認めながら、知識や情報を知る事から始まり、
深い理解を得ようとする、歩み寄る努力は、

いつしか知識、情報といった思考による理解を越えて、
マインドで感じる、ハートで通じるといった領域に踏み込むと思うのです。

現在は、「生きづらさ」を抱いてしまわざるを得なかった事も、

「生きづらさ」に気が付いて、そこから脱しようと、もがく事も、個人の問題として社会全体からは、切り捨てられている事柄の様に思っています。

望んで「生きづらさ」に苦しむ人はいないのですが、

社会全体は、
心に安心感が有る、
心に確固たる【自分】を構築している、
自分の人生を生きている事が、社会参加の条件といった様相が有ると思えるのです。

苦しむ人に手を差しのべるとか、救うとか、そういった事では無くて、

最終的に「生きづらさ」を手放すことは、苦しむ人が自分の中に答えを探し出すしか無いのですが、


たとえ隔たりの壁は高くても、

苦しむ人を解ってみよう、という個人が少しだけでも増える事が、

やがて全体の空気を創り出す様に思うのです。


心に安心感を構築出来なかった人は、心の中に確固たる【自分】という意識が育っていません。

同時に、【自分】の外殻線である、自分と他者を分ける感情の境界線が曖昧です。

心に安心感が無く、
心の中に【自分】が無く、
心に自他を分ける感情の境界線がありません。

いつも不安です、
何かに追われている様に。

【自分】が無いから感情が動きません、
自分の人生が他人事です。

いとも簡単に誰かに心を明け渡します、
他者との距離が測れません。


「生きづらさ」を抱えた人はそんな世界を生きています。

「生きづらさ」を手放すには、苦しむ本人が自分と向き合い、探し出すしかありません。

だからこそ、隔たりの向う側の人に、

知って頂きたく思いました。

本人以外は、傍観 があるべき姿勢だと思っています。

暖かい傍観者でいて頂きたい、

そう願っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム

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