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感情の境界線の曖昧さが、ぼんやりとした世界を創る

自分は自分、他人は他人、

物理的に、目で見て、触れて、そんなことは誰もが分かっています。

しかし、心理的には、自分と他者の区別がついていない人は、

とても多い、と思っています。

そして、自分と他者の区別がつかないことは、生きづらさに直結します。

社会的な生き物である私達人間は、他者との関わりの中で生きています。

心理学者アルフレッド・アドラーの言葉を借りるまでも無く、

人の悩みは、人間関係である、と言い切っても良いぐらいに、人は他者との関わり合いに苦悩します。

ただでも人は、人との関わり合いに苦悩するのに、

自分と他者の心理的な区別がつかないと、苦悩は多く、大きく、深くなることは必然でしょう。


生まれたばかりの赤ん坊には、自分と他者の区別はありません。

区別が無いから、赤ん坊は、母親と一体化した、母子密着の特別な季節を過ごします。

心理的には赤ん坊と母親は溶け合っていて、ひとつなのです。

ひとつになることで、赤ん坊はこの上ない安心感に包まれます。

乳幼児期から、幼少期に進む中で、赤ん坊から幼児へと身体は成長します。

それと歩みを同じくして、その子の心には、
確かな【自分】という意識、が芽生えます。

芽生えた【自分】の養分は、母子密着の季節に蓄えた、安心感、です。

安心感に包まれながら、幼少期のその子は、更に【自分】を成長させます。

この、確かな【自分】という意識、の外郭線が、自分と他人の感情を分ける境界線、です。

この乳児期から幼少期にかけての期間に、【自分】の養分である、安心感、が不足すると、

心の中の【自分】は、充分に育つ事が出来ません。

【自分】の外郭線が、自分と他者の感情を分ける境界線ですから、

栄養不足で発育不全な【自分】の外郭線である、感情の境界線もまた、未発達な状態になってしまいます。

つまり、くっきりと引かれる筈の、境界線、が極めて頼りなく曖昧な薄い線に留まります。

感情の境界線が曖昧であると言う事は、

人間関係を考える時、とても大きな足枷になります。

身体は成長して、見た目は立派な大人でも、自分と他者を分ける感情の境界線は薄く頼りなく、

赤ん坊や幼児のまま、という事です。


感情の境界線は、自分は自分、他人は他人という区別を付けます。
自分と他人との心理的距離を測ります。

心理的にここから内側には他者の侵入を許さない、という意識を持つにも、

逆に他者の心の、そこから先には踏み入ってはいけない、という意識も、

感情の境界線が引かれていて初めて持つことが出来ます。


逆に言うと、感情の境界線が曖昧である、という事は、

母子密着の時期の様に、自他の感情の区別の無い、極めて幼児的な心理世界に身を置いている、ということです。


すると、自分のパーソナルな心理領域に不用意に他者の侵入を許したり、

相手の心理領域にズカズカと踏み込んだり、

つまり、妙に不躾なまでに馴れ馴れしかったり、逆によそよそしかったりで、

心理的にいきなり近くなり過ぎて、驚いて相手を突き飛ばしたり、自分が飛び退いたりといった様な、極めて不安定な人間関係に陥りがちなのです。

長期的、安定的な人間関係を構築する事が難しくなります。

そもそも、
本来、自分の心理的境界線から相手の心理的境界線までを測りながら、微調整を加えることで、適切な対人的距離を見つけ出しますが、

境界線が曖昧ということは、距離が測れない、ということです。

言い換えると、心理的境界線が曖昧な世界は、極めて独りよがりな幼児的な世界で、

【自分】も無ければ、他者も無い、ぼんやりした世界とも言えます。

【自分】が成長していない事と、境界線が曖昧な事が、イコールなのですから、

人間関係の困難さ、と同時に、自分の人生にリアリティが無く、自分の人生でありながら、どこか他人事に思えてしまう、ぼんやりした世界、です。


【自分】が無い、境界線が曖昧、自分が嫌い、といったことは全部、生きづらさ、の事を言っています。

行きづらい人は、自分の苦しさが、生きづらさなのか何なのか、分からない事は多いのです。

【自分】が育っておらず、目隠しをした様に不確かな世界を生きているのですから、無理もない事です。

けれどもおそらく、

今の人間関係が好ましいか、否か、ということは、判断がつき易いのではないか、と思っています。

ひとつの紐解く為の糸口になれば、

と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム

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