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心地よい『今』を創るため、フォーカスは出来事に向ける

たとえば、クルマを運転している時に、ウインカーも出さずに無茶な割り込みをするクルマに遭遇して、
ギリギリのところで接触は免れた、とします。

ここで自分の意識が、割り込んで来たクルマの運転者に向くと、

怒りが湧き上がります。

ふざけるな!と思います。

どうしてくれようか、と思う訳です。

割り込んだ運転者に対する怒りで、心はパンパンです。

この時点で割り込んで来た運転者に、心を乗っ取られています。

相手に対する怒りでいっぱい、ということは、自分の人生の『今』を明け渡してしまっています。


私達が触れることが出来るのは、過去でも未来でも無く、『今』だけです。

過去の思い出がどんなに色鮮やかであろうとも、それは、思考が創り出す、想念、です。

未来の不安がどれ程リアリティを持っていたとしても、それも、想念、に過ぎません。

どう頑張っても、想念に触れることは叶わないのですから、

私達が触れることが出来るのは『今』だけです。

その触れることが出来る『今』の連なりが人生、ということになります。

だから、軽やかに心地よく過ごす『今』を連ねれば、
軽やかで心地よい人生が手に入ります。

無謀な運転者のことで頭から湯気が立ちそうな『今』を作ることは、

大切な『今』を無謀な運転者に、はい、どうぞ、と差し出すということです。

今日は無謀な運転者に怒り、
明日はわからず屋の上司に腹を立て、
明後日は、夫婦喧嘩をした日には、

不愉快な『今』を次々と創り出し、それがどんどん連なって、

怒りと、嘆きと、恨みに満ちた人生が出来上がります。


無謀な運転者は、人、です。
わからず屋の上司も、人、
そして女房もまた、人、なのです。

私達の軽やかで心地よい人生を阻害するのは、どうやら、ことごとく、人、である様です。

人、にフォーカスする癖がついていると、なかなか穏やかな気持ちをキープ出来ません。

私達がコントロール出来るのは、自分の心だけであり、他者の心はコントロールすることは出来ないから、です。

無茶な割り込みをされて、危機一髪、接触を免れた時、

フォーカスが無謀な運転者に向けば、怒りが湧き上がります。

しかし、フォーカスが出来事に向けば、
危なかった→ぶつからなかった→よかった、という事実と感慨だけが残ります。

フォーカスが、人、なら、
「ふざけるな!」ですが、
フォーカスが、出来事、なら、
「よかった」です。


フォーカスを、人、に向けると、フォーカスの当たった人は、自分の人生に於いて即座に、重要さ、を増します。

先にも触れましたが、私達がコントロール出来るのは、自分の心だけ、です。

人にフォーカスを当てることで、その自分の心の中で、コントロール不能な他者が重要度を増す訳です。

他者の重要度が増すだけ、自分の心は満足にコントロール出来なくなります。

だから、見ず知らずの無謀運転者に対する怒りに心を支配されます。

見ず知らずの人に、チカラを授けているのは自分自身なのです。

その分、自分は窮屈で、不自由な思いをします。


軽やかな人生を手に入れる、と言うと、

何やら、たいそうな感じがしますが、

『今』を心地よくしよう、と思えば、容易に手は届く気がします。

容易に手が届く心地よさが、人生を軽やかにする、と思うのです。

『今』を心地よくするには、フォーカスを出来事に向けるクセづけは大切だと思ってます。

フォーカスが出来事に向いたなら、他者は、出来事の中の登場人物になります。

自分の『今』、自分の人生に、

過大なチカラを持った他人が入り込むことは迷惑です。

だから、

フォーカスは出来事、

これ、意外に大事、です。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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