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届けたいのは心の地図では無く、些細な気づきのきっかけ

🔆明けましておめでとうございます🔆

旧年中は記事を読んで頂き、たくさんのフォロー、スキ、コメントをありがとうございました。

2023年2月19日のnote初投稿から10ヶ月あまりが過ぎました。

まだまだ一年にも満たない投稿歴ではありますが、こうして続けることが出来ているのは、ひとえに記事を目に留めて頂いた皆様方のお陰様です。

ヨチヨチ歩きでも、続けられた甲斐あって近頃やっとnoteというプラットフォームでの自分のスタンスが固まって来た様に思います。


個人的には、カウンセラーは受け容れる人、だと思っています。

なぜなら生きづらい人、苦しむ人、は相談者であり、気づきを迎えるのも、決断するのも相談者だからです。

生きづらさを抱えて長らく人生を歩き、その慣れ親しんだ生きづらさを手放したい、と願う様になったのは、その人の尊い勇気が有ったから、です。

手放そう、と強く願うに至ったその時点で、その人は勇敢です。

しかし、その勇者の翼は過酷な環境によって傷ついています。
固まって羽ばたく事が出来ません。

カウンセラーは、傷ついても翼は折れていないことを何度も伝え、固まった翼を溶きほぐす役割の人、だと考えます。

進むのも、羽ばたくのも、踏み切るのもその人自身です。

カウンセラーはアドバイザーではありません。

私が考えるカウンセラーは、その人が走れば共に走り、その人が歩けば共に歩き、立ち止まれば立ち止まる、
その間、走りながら、歩きながら、時にたちどまっても、伴って伴われて、翼を暖め、溶きほぐし、

やがて迎える気づきの時に、その人が羽ばたき易くする役目だと思っています。

その意味で自分自身、忘れない様に「伴走者」を名乗っています。

ともすれば、「そっちじゃありません、こっちです」と口を挟みたくなります。

しかし、その人は、自分で気づき、自分で決断し、自分で羽ばたくのです。

カウンセラーがすることは、翼を暖め、溶きほぐすこと、伴って伴われて歩むこと、だと思っています。


その伴走者がnoteでは、投げかける人になる訳です。

しかも、生きづらさに気がついて、生きづらさを手放そうと願う人では無く、投げかける相手は不特定多数です。

伝えたいことは沢山有るのです。

しかし、心のことは十人十色です。

二つと同じ心はありません。

発信したことが、ある人には良薬になり、ある人には劇薬だったりしないだろうか、と思いました。

投稿し始めて暫くは、慣れない事なので無我夢中でしたが、多少慣れ出した頃に、何となく腰の定まらない収まりの悪さを感じていました。

しかし、頂くコメントに返答しているうちに、

受け容れる人で在ろう、と「伴走者」を名乗った筈なのに、

投げかける、というアクションを取り続けるうちに、「こっちですよ」という構えになりがちで、

そこに収まりの悪さの原因が有るのではなかろうか、と思ったのです。

自分の経験を投げかける、自分の考えを投げかける、という能動的な働きかけをするのですから、

この道です、と指し示す様な表現になりがちなのは、ある意味「言葉の限界」でもあるのかも知れない、と考えるに至りました。

「伴走者」で在りたい、という心の構えを持って文章を書いていれば、

一つの記事では伝わらなくとも、いくつも幾つもの「伴走者」の構えで書いた文章が重なれば、

きっと必要とする人に、必要なタイミングで、必要なことが伝わる、と信じることにしました。

目指すのは、心の地図では無く必要な人に届ける些細な気づくきっかけ、です。

投稿を続けるうちに、変わることは有るのかも知れませんが、

こんな記事を書きたいと思っています、という事を表明するのも年初らしいのかな、と思いました。

noteでの基本姿勢は決まったので、あとは苦手意識の有る、他の投稿者の方々に自分からコメントする、という事も慣れていけたらいいな、と思っています。

頂くコメントに励まされるのに、他の投稿者の方々の記事に共感してもこちらからはコメントしないのも、如何なものか、という意識は有るのですが、苦手なのです。

今日は、noteにまつわる個人的な基本姿勢の表明と、克服したい課題の発表でした。

拙い部分、至らない部分は多々有ろうかと思いますが、

今年も何卒宜しくお願い致します。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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