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それ、長所ですよね?

自分のことが好きな人は、楽観的です。

自分を嫌っていたら、楽観的になんてなり様が無いのは、分かり易い、と思います。

自分の事が好きな人が、いつも、自分が好きだ、自分が好きだ、と思っている訳ではありません。

感じ方としては、なんとなく安心感がある、といった、ぼんやりとしたものだと思います。

その、ぼんやりとした安心感があるが故に、その人は、自分に固執しません。

自分という存在に安心しているのですから、意識を自分に向けている必要性を感じないのです。

意識が自分にあまり向かない分、外の世界が良く見えます。

眼の前の集中すべき事に、集中することが容易です。

言い換えると、雑念を持ちづらい、のです。

雑念と言われるものは、自分の存在に疑問が有る分だけ現れる、と言えます。

お寺で座禅を組む機会があったとして、
気持ちが散漫になると、

バシッと肩口に「警策(けいさく・きょうさく)」という、木の棒が入ります。

気持ちが散漫、と言うと意識が外に持っていかれる感じがしますが、

気持ちが外に持っていかれるのは、二次的なことで、

最初に、自分への不安や疑いに呑まれ、結果、気持ちが散漫になります。

自分に安心感が無く、ソワソワした挙げ句、散漫になる、という順番です。


座禅に限らず、たとえば入学試験、たとえば部活の試合などのプレッシャーがかかる場面に、安心感の無い人は、過度な緊張状態に陥りがちです。

やるだけやったから、後は天に任せる、と、腹をくくることが出来ません。

やってもやっても不安です。

本論からは脇道に逸れますが、この、やってもやっても不安な特質を活かして、

爆発的なパワーを生み出すことで目覚ましい活躍を見せる、ネガティブパワーの使い手も、いますが、

やはり、 
自分の存在に安心感が無いからやる、
追い詰められて力を発揮する、
という訳ですから、ここ一番の大勝負に勝つことはあっても、

人生という長丁場を豊かに軽やかに生きることからは、随分離れてしまいます。

やってもやっても安心出来ず、常に追い立てられて、全力疾走する様な生き方になり、いつか破綻してしまいます。

楽観的な人で、悲観的な人になりたい、と願う人は、ほぼいないと思いますが、

悲観的な人は、楽観的になりたい、と思う場合が大半を占めると思います。

誰がどう考えても、幸せは、楽観的な人の傍らにある、のではないでしょうか。


自分に安心感のある人の中にも、気が強い人もいれば、気の弱い人もいます。

人の性格は、百人居れば百通りです。

気の弱さ、ひとつ取ってみても、

自分に安心感のある人は、
性格の優しさ、と捉え、
争い事が嫌いな性質、だと解釈します。

自分に安心感が無く、自分を嫌っている人は、
自分の弱さを、意気地無し、と罵り、
なんて女々しい、と嘆きます。

自分に安心感が無く、自分を嫌っている人は、

自分の性格の一つひとつを、悲観的に捉え、欠点や短所を創り出します。

人は長所の数だけ短所を持っています。

長所と短所は、光りと影、一枚のコインの裏と表です。

良く解釈すれば「思慮深い人」は、
悪く捉えれば「煮えきらない人」、

良く見れば「勇敢な人」は、
悪く見るなら「無鉄砲な人」です。

自分の特徴を楽観視すれば、長所になり、
悲観的に捉えたら、短所になります。


安心感を持って、自分を解釈する人は、長所を生み出し、

自分が嫌いな人は、短所を創り出します。

光りを見るか、影を見るか、
コインの表を見るか、裏を見るか、

見る世界、生きる世界、を選び取っているのは、自分、です。

どう捉えるか、だけなのです。

私のここがダメ、

と思っているトコロを、

裏から覗いて見て下さい、

ダメ、どころか、

それって長所ですよね?


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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