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【読書感想文】老害になりたくて、老害になる人はいない 『ドガ ダンス デッサン』ポール・ヴァレリー (著), 塚本 昌則 (訳)

老害になりたくて、老害になる人はいない。

絵画界の巨匠・ドガもまた、本人の意志とは別に老害となり、親子ほど歳の離れたヴァレリーがその姿を詩的に描く。

そこに批判的な意図はなく、尽く、愛にあふれているから素晴らしい。

人は自分で見えていると思っているほど、物事がちゃんと見えているわけではない。

印象的な瞬間瞬間を認識することはできても、その間に存在している過程は想像で補ってしまうケースはよくあることだ。

だが、本来、重要なのは過程の方なのではなかろうか?

ヴァレリーはドガの人生に想いを馳せる。

偏屈なジジイが仕上がるまでの過程にこそ、ドガという人間の本質があるのではなかろうかと本気で信じて。

そして、ドガの作品を眺めながら展開される連想は、デッサンやらダンスやら、さらにはマラルメの芸術性へとしっちゃかめっちゃか広がっていく。

すべては過程に収束していく。

デッサンは絵画が仕上がるまでの過程であるし、ダンスはあるポーズからあるポーズへと移り変わっていく動きの過程である。

『骰子一擲』で運命を否定することを通して運命を肯定して見せたマラルメの詩作もまた、過程の芸術と言えるだろう。

実際、ドガは過程を鋭く見ていたそうだ。

発明されたばかりのカメラを使って、まず、走る馬を撮影したらしい。

なんのため?

馬が走る過程を知るためだった。

他の画家が描く「走っている馬」に対し、この馬は走っていない、止まっているとドガはケチをつけていた。

そして自ら手本となる「走っている馬」を描いて見せるも、常識外れの描き方に賛同は得られなかった。

だから、答えを知るため、ドガは走っている馬の写真を撮った。

結果、ドガは正しかった。

有名な踊り子の絵にしても、ドガはダンスの過程をどう描くかに心を傾けていたらしい。

考えてみると、ダンスという動くことを前提とした現象を、絵画という静止が運命づけられている形式に落とし込むというのは、相当にぶっ飛んでいる。

ドガの描く世界の中には、始まりも終わりもない。

あるのは常に過程だけ。

決してひとつの形に定まることない過程が、キャンバス上で、永遠に固定化されている。

この矛盾は、決定論の中に決定論なら脱出する道を探そうとしたマラルメの思想に通じるものがある。

そのことを示すかのように、ドガとマラルメの間には、愛憎入り混じる複雑な関係があったらしい。

ただ、ヴァレリーの凄いところは、偶然、この二人の因縁がフランス革命を巡る祖父の代から続くものだと突き止めた点だ。

この発見、真偽のほどはわからないけど、打ち震えるほど面白い。

ヴァレリー自身、過程を愛する人だった。

ブルトンをはじめとするシュルレアリストの多くに影響を与えたヴァレリーの『テスト氏』も、まとまった思想を記しているのではなく、思考する過程そのものを描いていた。

故に、理解しようとすると難しいけど、観察するつもりで読めば簡単なのだ。

この本を読むと、過程に対する意識が敏感になる。

たぶん、自分にとって面倒な相手を「バカ」や「老害」など簡単なフレーズで切り捨てるのは間違っている。

その人がそうなるに至った過程に対し、もっと、心を寄せなきゃいけない。

時空の軸から眺めてみれば、みな、動きの真っ只中にいるのだから。

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