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solitude | 社会との距離感


オンラインとオフライン

オフラインでの関係性が薄まっていく中で、僕たちはオンラインからの影響がかなり増加しているようだ。僕自身は実社会からは少し離れた場所で過ごしているために自分の居場所とそれとの隔たりを大きく感じることが多い。

その中でも、大きく感じるのはオンライン・オフラインで感じる体感の差だ。良くも悪くもオンラインの場では似た者同士が横並びになっていて、そもそもの差異を感じることが少ないように思う。

しかし、実社会=オフラインの世界では本当に多種多様な人々がそこで生きていて、その圧倒的な差異が可視化されている。

そこには圧倒的な理不尽や、圧倒的な格差が視覚的になっており(僕が周りを感じ取り過ぎているだけかも知れないが)、ある意味での"現実"がそこにはある。

対して、オンラインの世界では自分が気に入らない相手は容易にブロック・遮断することが可能で、関わりたくない相手と無理に繋がる必要もなく、場合によってはオフラインでのつながりはあるが、オンラインでは繋がらないという選択肢を選ぶこともできる。

つまり、結局はオンラインの世界には自分に都合の良い理想郷を作り出すことができる。そして、そういう人たちがエコーチェンバーという形で群れをなしていて自分の考え方や新しい価値観を手に入れるのは不可能だとも思っている。


同じ環境で過ごす影響を考える

オンライン上でのつながりが増えていくにつれて、似た者同士の考え方や価値観はさらに凝り固まっていってしまう。

「おすすめ」に流れてくるものも似通ってくるだろうし、同じ意見に賛同しがちになる。そしていちばん最悪なのは自分たちとは違う意見・価値観を全く無視してしまうことだ。

これはオンライン上だけではないのかもしれない。実社会でのつながりも同じ人たちの中で生きていると同じ価値観を共有していくことになるので、自分が本当に良いと思っているものを素直に良いと思えなくなってくる。逆も然りだ。

noteの世界でもきっとそうなっていて、僕が特定のキーワードで検索こそするものの、常に新しい人との交流を求めてしまうのは自分の価値観が定まってしまうことへの恐れからでもある。良いか悪いかは自分が決めることで、とりあえずはいろんな人の考え方を知ってみたい。


高効率は重要だったか

ここ数年でデジタル化がかなり進んだ。コロナ禍の影響もあるだろし、やはり効率を考えると、どう考えてもデジタルの方が高効率でパフォーマンスは高くなる。

そのパフォーマンスばかりを追い求めてしまったのが、現代社会なのかなと思っている。僕ら世代だと「コスパ」になるし、今は「タイパ」である。いつでも簡単に便利に過ごした結果がこの社会にまん延する虚無感の正体なのだ。

つまり、「誰も」が「何でも」出来すぎることが基準となり過ぎた。求められる普通の度合いがかなり高まった。その逆で普通に届くことが叶わない人たちにとってはとても生きづらい社会を作り上げてしまった。

自分の代わりなんてどこにでも居る。たくさん居る。だから自分が必要ない。そんな風に思ってしまうのも当然じゃないか。「あなたはあなただから素晴らしい」と言われ続けて生きてきた人がどれ程居るのだろうか。


"孤高"に生きる

自分の代わりに生きていってくれる便利な誰かは居ない。

じゃあもうこれは親ガチャも失敗したし、生まれ持って変えられないことも多いんでさよなら、死にます。そう考えてしまうのはとても真っ当なことな気がする。

そう思っていた時期が自分にもあるので否定はしないし、否定できる程に今の自分は変わったし過去の自分がゴミかと言われればそれはそれで違う。今だってまあまあそう思うことは多々あるから。

それでもやっぱり生きていくしかない。鬱っぽい時はもちろん惰性で生き延びることもありとして、これからの人生に少しでも期待して生きていきたい。

生き延びるだけの希望も無いし、死ぬ程の絶望も無いならとりあえず四の五の言わずに生きていればいいと思う。難しく考えずに飯食って、適当に娯楽を消費して、寝てを繰り返せばいい。

そこに意味も価値もきっとないし、そんなことをいちいち考えてしまうパフォーマンス至上主義な世界に僕は生きていない。僕は小さな小さな自分の世界で生きていく。

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